ステップファザーにできること

発達障害の娘とやんちゃ息子の父によるステップファミリーの話

アドラー心理学を5歳(発達障害)と3歳の幼児に一年実践したぞ!

突然二人の子供達の父親となった私の好きな思想、それはアドラー心理学だ。

 

アドラー心理学というよりは岸見一郎先生の著書、「嫌われる勇気」が大好きである。

 

ステップファザーとなった私が正気を保って子供たちと過ごせてるのも、ほぼ全てアドラー心理学のおかげといっていい。

 

結婚当初、子供たちは完全な幼児。5歳の娘と3歳の息子、娘は重度の発達障害。さらに子供達は妻の連れ子である。

 

アドラー心理学がそのまま通用する年齢ではなかったし、試行錯誤しながら自分で調整する必要があった。

 

そんな状況で一年以上継続してきた、アドラー心理学の実践記を紹介しよう。

 

突然二人の子供ができたお父さんなので、普通の人ではありえない思考や失敗も多数ある。

 

正直失敗だらけだが、大目に見てくれたら幸いだ。

 

取り入れたアドラー心理学の基本姿勢

まず私が取り入れたアドラー心理学の基本姿勢を二つ紹介しておこう。

 

一つ目、メインはやはり課題の分離である。

 

課題の分離とは、何か問題があった時に最終的にその責任を背負う人は誰なのかを考えることだ。

 

最終的な責任者が子供なら親だろうが首を突っ込んではいけないし、逆に自分が責任を取る問題には他者が首を突っ込むことを許してはいけない。

 

正直、これさえ極めれば人間関係の軋轢はほぼクリアである。

 

そしてもう一つ、育児に必須だと感じるのが貢献感を感じてもらうことだ。

 

何かいいことをした時にほめるのではなく、悪いことをした時に叱るのでもなく、その人を認め、尊敬し、その人が存在していること自体に感謝する。

 

私は誰かに貢献している、子供がそう無意識に感じられるのならすくすく育つのではないか?

 

ほめられたりしかられたりと競争の中で生きるのではなく、家族に世界に貢献しているという感覚さえあればあとは本人の好きにさせたらいいんじゃないか?

 

基本的に私が実践したのはこの二つである。

課題の分離~幼児の危機管理について~ 

まず真っ先に言いたい。

 

課題の分離って超絶難しい!

 

自分の子供のことで課題の分離をするのは本当に難しい。

 

まず最初に私が引っかかったのは、危機管理についてだ。道路への飛び出しや高いところに上る、またコンロで火遊びなどなど。

 

私は最初相当に悩んでいた。なぜなら、

 

道路に飛び出してケガしたり最悪死ぬのはこの子達じゃないか。それを納得した上で道路を走り回り自由を謳歌した上で事故ってケガをするなら、それは私が口を出す問題ではないんじゃないか?それこそが課題の分離では?

 

と本気で考えたりした。だが違ったのだ。違ったのである。

 

幼児というのは、

 

危険なことが危険であるとわからない。

その結末も予想できないし想像できない。

リスクを教えてもわからない。

わかった風な顔をしてもわかっていない。

 

つまり事故にあってケガをしてもそれは本人が理解し、納得したものではないのだ。

 

リスクを理解できるレベルに達していないにもかかわらず人生を台無しにするような責任を負わされる。それはあんまりだろう。

 

さらに幼児には衝動性がある。何かが目に入ると周りが見えなくなることが多々ある。

 

常に理性を保ち自分の身を自分で守れるようになるまでは、強制的にでも危険な行為は親が阻止せねばならない。

 

駐車場で子供が「手を繋ぎたくない!」と泣き喚いても絶対に繋がらなければならない。逆に、失敗してもちょっとしたケガで済みそうな場合はスルー案件といえる。

 

結局常識的な対応になったが、それが幼児の危機管理についての私の結論だ。

 

課題の分離~発達障害の娘の場合~

発達障害の娘の場合はアドラー心理学を実践するのはさらに難しかった。なぜなら、あらゆる行為と結末が結びつかないからだ。

 

例えば、朝の登校前に絶対にカバンを持ちたがらなかった娘の話をしよう。

 

通常であれば、自分がカバンを持たない→誰も持たない→学校で自分が困ると結びつく。

 

泣いても喚いても親がカバンを持たなければ自分で持つしかない。だが娘はそれが結びつかないのである。

 

嫌な物は嫌、それだけでその先がわからない。カバンを玄関にぶん投げ、それを放置したまま車に乗っても何の反応もない。

 

きっと学校でカバンがないことを知って「何で自分のカバンがないのかわからない」のだ。

 

これでは課題の分離は通用せず、カバンを持つかどうかは私の課題になる。

 

結局、クソがー!!と思いながら私が持つしかない。

 

子供が最終責任者であると理解できないなら、その保護者である親の課題になるのだと知った。

 

また娘は発達障害ということもあり、”強制的に何かをやらされたり、強制的にやりたいことを止められる”ことに非常に敏感で、暴れまわり叩いたり反り返ったりする。

 

危険な行為は仕方ないにしても、娘が怒ったら課題の分離ができていないと判断してもいいのかもしれない。

 

 

ちなみに3歳だった頃の息子には「自分でカバンを持って責任を取れ理論」は通用しなかったが、4歳を過ぎるとカバン持たないと自分がやばいということを理解できているぞ。

課題の分離~物が壊れたら誰が責任をとるのか~

さて、課題の分離でもう一つ悩まされたのは物を壊したり無駄づかいすることの責任についてだ。

 

父になったばかりの私は、息子や娘が部屋で暴れようが物を振り回そうが私のPCのキーボードを叩こうが「自由にしたらいいよ」と微笑んでいた。 

 

暴れたいのは君たちの自由だし、私のPCを触りたいのも君たちの自由だ。それは私が強制的に止めるものでもないよね。それが課題の分離だよね。

 

だが違うのだ。暴れたり好き勝手に物を触られて壊れてしまって困るのは誰だ?

 

それはお金を払う親なのである。

 

そのまま放置ではまずい。そこで何かを触るという幼児の行為については以下のように考えている。

 

・まず危険なものではなければ触ること自体は構わない。好きにさせるのが基本。

・触り方や操作方法がわからないようなら教えよう

・初めてやることで注意が必要なら手本を見せて一緒にやろう

・理解ができず壊しかねないと判断したら強制的に止めよう

 

実践したところ、落とし所としてはこんな感じだ。

さて、ここで何もわからなかった頃の私の失敗談を一つ紹介しよう。

 

3歳の息子がある日「皿洗いを手伝いたい!」と申し出てきた。自由を愛していた私は了承し、好きなように一切手を出さずに息子の皿洗いを見ていた。

 

するとどうなったか?

 

スポンジに洗剤をチューチューかけまくり、シンクを洗うと洗剤をシンクにチューチューかけまくり、そして一回の皿洗いで洗剤を丸々一本使い切ってしまった。

 

何度か声はかけた。

 

「そんなに使ったらもったいないよ」とか「洗剤はちょっとでいいんだよ」と。

 

「うん」と返事はする息子だったが、何も変わらずにチューチュー洗剤を出して使い切ってしまった。

 

それを見ていた私はイライライライラして、

 

こいつ、完全に私を馬鹿にしてる!!

 

と怒り心頭だったのだが、そうじゃないのだ。

 

皿洗いが人生初体験で、洗剤の使い方もシンクの洗い方も皿の洗い方も何もかもわからなかったのである。

 

そこは私がしっかり手本を見せて手順を教えてサポートすべきだった。それはなぜか?

 

洗剤がなくなって購入するのは親だからだ!

 

考えるまでもないことかもしれないが、課題の分離は本当に難しい。

 

例えば子供が誕生日プレゼントにあげたおもちゃを乱暴に扱っていたりすると、とてもモヤモヤする。せっかくあげたのに!とイライラする。 

 

しかし実際は、そのおもちゃは既に子供の所有物。壊れて困るのは私ではない。

 

「壊れるよ」とか「大事に使ってくれたら嬉しい」と声はかけても、強制的に止めることはない。

 

一体誰が責任をとるんだ?と、常に意識する必要がある。疲れるが、理にかなってると感じる私は今後も実践していくつもりだ。  

 

子供が貢献感を持つには~子供をほめない~

続いては貢献感についてだ。私が子供たちに対して絶対に使わない言葉がある。

 

すごいねー

えらいねー

おりこうさんだねー

 

このようなほめ言葉だな。本当にまったく使わないぞ。

 

アドラー心理学では子供の問題行動の最初の段階が称賛の欲求と言われている。つまり、子供達がほめられたいと感じるのは問題行動の始まりだということだ。

 

称賛されるために何かをするのであれば、称賛されなければ何もしないということ。

 

というわけで、私は絶対に子供たちを褒めない。発達障害の娘も絶対に褒めない。

 

初めてトイレを成功しようが、普段できないことができようが絶対に褒めない。

 

絶対にだ!

 

称賛の欲求が強いのは息子だね、何か新しいことができると賞賛の要求が始まる。

 

「ねぇ、すごいでしょ?」「これ見てーすごいー?」

 

とやたら凄いという言葉を求めてくる。だが私の答えはこうだ。

 

「へー、それできたんだね、私も嬉しいよ」

「君がそれをできるようになったら私もありがたい、助かるよ」

 

とか何とか、とにかく嬉しい、助かる、ありがとう。こればっかり言ってる。息子はその言葉で特別喜ぶわけじゃないが、別に不満はないようだ。

 

最近でも「すごいー?」とたまに言うが、「助かるでしょ」「ありがたかった?」など聞いてくる姿も見られている。

 

それがいいか悪いかわからないが、貢献感は感じているのではないか?

子供が貢献感を持つには~子供をしからない~

私は子供たちをしからない。大きな声も出さないし怒鳴らないし叩かない。ほんっとうにイライラしてむかついて発狂しそうになっても叱らない。

 

ただ無言になり態度が冷たくなるだけだ。うむ、それも問題だな。未熟である。

 

まーもともと人は人、自分は自分という考えなので実践は容易なのだが、基本的な考えが二つある。

 

一つは、まーこういうこともあるよね。 

 

失敗することもあるし、子供だってイライラして何もする気がしない日もある。今この状況だけで何かが決まるわけじゃないのだ。

 

そしてもう一つは、

 

今はできないけど、いつかはできるようになるよ。

 

この二つでのらりくらりとやっている。

 

それでも許せない時はあるのだが、基本的には冷静に説明したり話し合うように心がけている。

 

効果のほどはよくわからない。まだ親の顔色を気にする部分が見え隠れしている感じはある。

 

それは親である私たちが少なからず怒ることがあるからだろう。 

子供たちが貢献感を持つには~ありがとうおじさん~

そして最後に、貢献感を子供たちが感じるよう私がもう毎日のように言っている言葉。それが、

 

ありがとう。

 

これだ。

 

娘がしっこを訴えたら「教えてくれてありがとう」

息子が寝室の準備をしてくれたら「ありがてー、助かるわ」

娘が薬を飲んだら「すんなり飲んでくれたら嬉しいね、ありがとう」

息子が車でシートベルトをしめたら「ありがとう。安心して運転できるよ」

 

もはやありがとうおじさんだ。

 

子供たちもよく「ありがとう」という言葉を使うので、何かしら意味はあるんじゃないか?

 

まあ、あれだよ。言い換えれば、

 

「しっこ教えてえらいね!」「すごいな!」「すごーい!!薬飲めておりこうさんだね!」「えらいね、しっかりシートベルトしめて」

 

このほめ言葉を全てありがとう、助かる、嬉しいに変えただけである。

 

とにかく子供たちが貢献感を感じてくれてたらいいなとひたすら続けるだけだ。

 

アドラー心理学を実践した結果の家族の関係は?

私はステップファザーであり、二人の子供は妻の連れ子。つまり子供達にとって突然出てきたおじさんである。

 

そんな私だが、特に大きな問題もなく子供達とスムーズに同居することができた。

 

あまり物言わぬ娘も「パパー」と言ってくれるし、息子も寝る前には「今日も1日お疲れ様、大好きだよ」と妻だけでなく私にも言ってくれる。

 

息子に「私のことが好きか?」と聞けば「うん」と言うし、「私は君のことを好きだと思うか?」と聞けば「うん」と言う。

 

愛されている、存在を認めてもらっているという感覚が大事なのは言うまでもなし。

 

全てが全てうまくいっているわけではないが、子供の課題に首をつっこんで思い通りに動かそうとしていたならばこんなに馴染めなかったのではないか。

 

アドラーできない日もあるさ!

以上!私のアドラー実践記であり、これは二年目の今も現在進行形で続けている。

 

ここまで体験談を交えて偉そうなことも書いてきたが、これが正しいアドラー心理学か確信はないし毎日完璧にできているわけではない。

 

娘に毎日叩かれると普通にムカつくし、息子に生意気なことを言われると怒って無視モードに入ることだってある。

 

体調が悪い日もあれば疲れ切っている日もある。無意味に叩かれたり引掻かれてぶち切れる日もある。

 

ありがとうなんて死んでもいうかこのクソ野郎!

 

という日ももちろんあるし、うんざりして実家に逃げ帰る日もある。 

でも何か悩んだ時や、子供たちの対応に困った時、アドラー心理学が私の心の支えになっている。

 

子供たちにイライラしてぶつかる時は大抵子供の課題に首を突っ込んでいる時だ。

 

そんな時にどう考えるべきか?どう対応すべきか?

 

それら育児のイライラに関する全ての最適解になりえるのがアドラー心理学だ。

 

最期の余談として、嫌われる勇気の中の哲人も「二人の子供の育児を通じて少しずつアドラー心理学を学んだ」と言っている。

 

え!?マジ!?私も二人の子供の育児でアドラーできるじゃん!!

 

と図らずも同じ状況でテンションがあがったものである。

 

そして2年近く経った今、私がリアルにどんな対応しているかこの記事がわかりやすいな。

 

私も哲人のように、妻や子供たちと一緒にアドラー心理学を実践しながら調整し、少しずつ私のアドラー心理学をアップデートしつつ子供たちの自立をサポートしていきたい。