先日子供達と3人だけで過ごす日があったのだが、その日の私は相当にピリピリしていた。
動物園が上手くいかなかったのもあるし、考えることがいっぱいで子供達にいつものような対応ができなかった。頭が回らなかったというべきか。
そんな時に、息子があるウソをついたのだ。今回はそんな嘘をついた息子について思うことを書いていきたい。
この日の午前中の様子はこちらもどうぞ。
娘と息子と3人で動物園に行くと笑顔で自由にさせるのは不可能説
息子のしょうもないウソ
書けば本当にどうでもいい話であるが、まあ聞いてくれ。
食後は大抵何も言わずとも洗面所で手を洗う息子なのだが、この日は少し違った。
食後に洗面所まで行った息子は確認したのだが、水を出す音が聞こえない。そして水の音もしないまま、息子は何食わぬ顔で洗面所から戻ってきたのである。
「手洗った?」という私に、「洗ったよ」という息子。
既にストレスがピークに達していた私はイライラし、「何でうそつくんだよ、音しなかったし。手洗ってよ」と注意すると、息子もふてぶしく言い返す。
「わかったよ!洗えばいいんでしょ!」
とか言うのだが、そういうことじゃない。
私がむかついているのは、ウソをついたことである。
はいはい、洗えばいいんですよねーというナメくさった態度がさらに私のイライラに火をつけ、「食事のあとには何も考えずに手洗うんだよ、これぐらい習慣にしようよ」とか何とかいって息子を洗面所まで引っ張っていった。
息子も怒っていたし、私も怒っていたぞ。という話。むかつくな。
アドラー心理学ではどう考える?
当日の私はイライラして、正直どうしていいかわからなかったのでただ怒っただけ。
では実際に私の中での正解の対応は何だったか?
まず客観的な事実として、今回は食後に手を洗わずにうそをついた息子であるが、いつもは洗っているのだ。
そして、人間だから面倒臭い時もある。私だって手がまったく汚れてなければ洗わないこともあるし、当然嘘をつくことだってある。
息子もたまたま洗わなかっただけ、気分がのらなかっただけかもしれないしウソをついてでも手洗いを回避したいくらい面倒だったのかもしれない。
その一回だけで息子の今までの行動を全否定するのはよろしくないだろう。
それでも今後もなんどもウソをついたら?手を洗わなくなってしまったら?
そんな私の不安に対する答えとしては、
言うことを聞かない息子、嘘をつく息子も含めて信じてみよう。
というもの。
アドラー心理学における”信頼”。簡単に言えば、無条件に相手を信じること。それが信頼。
息子がたとえ嘘をついたとしても、言うことを聞かなかったとしても、無条件に信じてみる。
嘘をついたことを咎めるのではなく、手を洗ったほうが綺麗になってみんなが気持ちよく過ごせるという事実を知らせて、あとは息子に任せ、信じる。
結局、息子がこのあとどうするかなんて私には決められない息子の課題であって、私にできるのは息子を信じるだけなのだ。
うむ。嫌われる勇気の青年よろしく、どこの聖人だよという気がしなくもない。
これってレ・ミゼラブルじゃん
そしてこのような状況に置かれて思い浮かんだのは、協会から銀の食器を盗み出したレ・ミゼラブルのジャン・ヴァルジャンのこと。
ジャン・ヴァルジャンは食器を確かに盗んで警察に捕まったのだが、協会の神父は言うのだ。
「盗まれたのではありません。私が差し上げたのです」
これってつまり、ジャン・ヴァルジャンを信頼したってことだよね。
盗んだジャン・ヴァルジャンが今後どうするかは神父には決められないけども、そんなジャン・ヴァルジャンを無条件に信頼しようと決めた上での言葉なのだろう。
そして、実際にこの神父の行いによってジャンヴァルジャンは改心したのだ。
これはフィクションの話であるが、はて、この世の中はそんなに上手くいくものか。
上手くいくかどうかを気にしている時点で、他人の課題に首を突っ込んでいるとも言える。
難しすぎない?アドラー心理学。人の領域かな?これ。
まずは信じてみる?
とはいっても、怒ろうが注意しようが信じようが何しようが、この先もずっと24時間毎日のように子供達を見守ることはできない。
彼らは大きくなって独立し、自分の仕事を見つけ家族を作っていくのだろう。
当然その過程で私や妻に嘘をつくことも増えてくるだろうし、話したくないことも、ちょっとした悪事に手を染める可能性だってある。
その時に必要なのは何か、と考えれば、やっぱり信頼なのだろうなぁという結論に至る。
何があろうとこの人たちだけは自分のことを認めてくれている、愛してくれている、そんな感覚を持ってもらうのが、私の仕事なんだろうと思う。結局ね。
そして現時点の私は、子供達を信頼できていないし、信用すらしていないということ。完全に見下し、縦の関係性を築いていることがわかる。
相当に難しいな。先は長い。