週末になると子供達と一緒に過ごす時間が増える。
公園に行ったり出かけたりすればそれなりに楽しい時間を過ごせるのだが、ちょっと家にいる時間が長引くと色々と面倒になったりする。
今回は出かける直前に息子と徹底的に「自由」について話あったことを書いていきたい。結構むかついたぞ。
僕は自由じゃないと主張する息子
今日はお昼からちょっとしたイベントがあったのだが、出かけるのは14時ごろ。妻の調子も悪く、午前はどこにも出かけなかった。
それもあって息子もイライラしていたのかもしれない。きっかけはわからないが、「僕は自由じゃないし、つまらない」と言い出したのである。
いやいや、君は自由だよ。好きにしたらいいじゃないかと息子を諭すが、こう反論がきた。
「だって、パパに抱っこしてって言っても抱っしてくれないし!アイス買ってって言っても買ってくれない!僕は自由じゃない!!!」
なぜかよくわからないが既にそこそこ怒っている息子。思い通りにならないことに、自分のやりたいことができないことにイライラしているようだった。
ちなみに抱っこは何度もして疲れたから断っただけなのだが。
それに、私の行動までもが息子の思い通りになると勘違いされても困る。
息子が抱っこして!と私にお願いするのは自由だが、それを断るのは私の自由である。息子がアイス買って!とおねだりするのは息子の自由だが、それを了承するか否かは私の自由である。
息子は自由だが、私も自由なのだ。
息子は自由に好きに振舞ったらいい。そして私も自由に振る舞う。そう何度か主張したが、通じないもんだな。
5歳児にマジギレするお父さん
5歳児とこんな話をしても意味がないというか、お互いの「自由」の定義が違うので話はほとんど平行線だ。
「パパやママは車でどこでもいける!料理もできる!でも僕は車も乗れないし料理もできない!自由じゃない!」
ずっとこんな感じである。
ふざけんな!身体中がだるくて眠くて仕方ない朝に、私が喜んで学校に送迎しているとでも!?
自分が食べるご飯を作るのすらしんどい時もあるのに、自由だーと喜んで私がご飯作ってるとでも!?バカ言ってんじゃねーぞ!!
とまあ、売り言葉に買いことばでかなりイライラしたという話である。
他にも祖母の家に一人で歩いていきたいとか、自分のお金がほしいとかまあ色々言ってくるのだが。
結局は、あらゆる全て、自分だけじゃなく周りの人も親も環境までもが息子の思い通りになることが息子にとっての「自由」なのだと私は判断した。
お金をちょうだいと言えば必ずお金がもらいたい。遊びたいと言ったら必ず思い通りに遊んでもらいたい。
私の定義では、それを自由とは呼ばない。ただのわがままである。
自由というのは自分の「心」の話だ。自分以外の誰かが、状況が、環境が、自分の思うままに動くことはない。
自由を履き違えるな、そして自由を諦めるな。お前にはできることがまだあるはずだろう。
自分が自由かは考えてみてもいい
とまあそんな口論を30分くらいかな、結構長いことやっていて、妻が仲裁に入ってそこそこにいい感じにまとまった。
その後も許せない私が色々と話をしたが、息子が突然「もちを食べたい」と自由な発言をしたのでみんなでケラケラ笑って終わり。
しかしこの話をしていると、色々と気づくことがあるよね。
大人である私や妻が自由に好きなようにやっているか?と問われたら、その答えは確かにYESなのだ。
上で書いた眠い時の送迎も、だるい時の料理も、やりたくもない仕事も、それでもやると決めたのは他でもない自分なのだ。
本当にやりたくないならやる必要はない。それこそ「自由」なのだから。
でも自由を行使することにはそれなりのリスクが伴う。送迎をしなければ子供達は学校に行けず、友達とも会うことができないし活動範囲が大幅に狭まる。
だるくても料理を作らなければ家族の栄養状態を損なうし、成長期の子供達にとっては死活問題だ。
面倒臭いし嫌なこともあるし絶対にやりたくないとその時思ったとしても、それでも「やる」と決めたのは自分なのだ。その自覚がある。
この感じ、息子がいつになったら理解できるだろうか。
考えがあまりまとまっていないが、私はまあ息子の言う通り自由にやっている。そしてできないことがあれば、どうやったらできるかを考えている。
息子も「自由じゃない!」と嘆く前に、やれることがあるんじゃないのか。
私が君の思い通りになることはないが、それと君の心が自由なのは全く関係がないのだから。