ステップファザーにできること

発達障害の娘とやんちゃ息子の父になった話

何をしても許され愛されたい息子VS何をしても許され愛されたい父親

昨日は息子と稀に見る大げんかを繰り広げ、ブログで「かわいそうな私」を全力で表現したとんぼである。ごきげんよう。

 

今回はこちらの記事の続報である。

息子と修復不能レベルの大げんか中のため今日のブログはお休みです

 

喧嘩のあとでどうしても切り替えができず、息子との問題に向き合うことすらできなかった私であるが、少し考えがまとまった。

 

なぜ私がこんなに息子にイライラするのか?なぜ私は息子を支配したいのか。そしてなぜ喧嘩になったのか。

 

息子の何がそんなにむかつき、嫌いになりかけているのか。1日中考えた結論を書いていきたい。しょーもないぞ。

息子は変えられない

まず前提として、今回息子のわがままっぷりや発狂っぷり、言うことを聞かない感じ。かんしゃくを起こしたこと。

 

これら全て、私には変えることができない。変えたいと思っても変えられないのだから仕方がない。

 

それでも、教えることはできるはずだ。

 

発狂していた時に色々言ったら逆効果だったのだが、落ち着いた時に少しずつ話してみよう。

 

人に暴言を吐くことのリスク。大声であげても何も変わらないこと。自己主張がすぎると逆効果であること。

 

私たち親にならまだしも、社会では通用しないことは多くある。息子が納得し、理解できる形で伝えていきたい。

  

そして息子を認めていきたい。愛していると伝えたい。

 

昨日の喧嘩も細かい経緯があったのだが、息子を認めて信頼すれば喧嘩になることはなかったのだろう。

 

だが、認めること、愛することが素直にできない自分に気がつく。どうしても、「愛したくない」という自分がいる。

愛してくれない息子は愛せない

私は息子に対して、思えばずっとイライラしていたのかもしれない。自由に振る舞う息子が許せなかったり、喜ぶ息子が許せなかったりした。

 

以前は息子を支配したいという結論に至ったのだが、なぜ支配したいのか、なぜ息子を思い通りにしたいのかという、もう少し上の無意識があることに気づく。

 

それは、「私を愛してくれないなら、愛さない」というもの。怖いね、愛の復讐さね。

 

なんとなく気づきつつも、向き合わずにここまできた。

 

これ情けないから本当に書きたくないんだけども、あるんだよ。確かに、この「とにかく愛されたい、愛してくれないなら許さない」という思いが。

 

私に対する生意気な口調は許されないし、私に嘘をつくのも絶対に許されない。

 

息子がYouTubeを見るのが嫌なのは、熱中しすぎて私を無視したり、言うことを聞かなくなったりするから嫌なのだ。言うこと聞かないと、愛されていないと感じる。

 

最近では息子が一人で風呂に入るのもむかついていた。

 

以前は一緒に入りたがっていた息子が、テレビが見たいからと一人でささーっと入ってしまうのがむかついて仕方がない。

 

今まで一緒に喜んで入っていたのに。テレビを優先して一緒にお風呂に入らない息子に対して、愛されていないと感じてしまうのだ。

 

他にも駐車場で危ないから手を繋ぎたいのに拒否られると、異常にイライラして嫌味を言ってしまう。意地悪をしてしまう。

 

いやーなっさけない。情けないが、それでも私の中に「愛したい」という思いもあるのだ。

 

あるから怒ることもできず、かといってイライラは止められないので嫌味を言ったり意地悪をするというクソ対応をするのである。

 

そら息子も怒るわなーという感じ。

 

嫌われるのが怖くて、遊びをはっきり断らなかったりするのも息子が怒る原因の一つだと思ったりもする。

何でこんなに愛されたいのか

前にこんな記事を書いている。

◆子供を愛してる親と、親に愛されてないと感じる子供

 

私が30歳になるまで、親に愛されていないと思っていたという話だ。

 

原因は幼少期に親が借金漬けだった影響か、親と遊びに行った記憶がほとんどないからかわからない。ただ、私は愛に飢えていた。

 

とにかく愛されたかったし、愛されていないと感じることに異常に臆病になった。親に愛されていないと感じた時には無視をしたり、露骨な拒否反応を示すのだ。

 

最近もそうだ。血の繋がらない孫である我が息子や娘を、実の孫のように扱ってくれない実母にかなり怒っていた。

 

それは子供達を見てくれないからじゃない。「私が愛されていない」と感じたからに他ならない。

 

親に愛されたい私は、この新しい家族にも。妻にも子供達にも、私を愛してほしかったのだ。

 

愛してほしいし、愛してくれないなら私は愛さない。

 

子供達を愛する。愛したい。そう口で言う私は結局、愛されるという保証がなければ愛することはないのである。

 

しょーもないな。

愛される存在から愛する存在へ

このままでいいはずがない。

 

子供達はまだ幼児だ。幼い。今回喧嘩をした息子に至ってはまだ5歳の幼稚園児である。

 

幼稚園児の息子は言葉通り、「愛されなければ生きていけない」のだ。

 

私たち親に愛されなければご飯も食べられず、学校にもいけず、ほとんど何もできない。赤ちゃんのころからの生存戦略として、親に愛されるというのは子供にとっては前提なのだ。

 

そんな息子に対して、父親である私も「愛されなければ生きていけない」と言っているのが現状だ。

 

笑えるくらいに幼稚だが、それが私の無意識なのだから仕方がない。親の愛に飢えていた私は、親になった今子供達に愛を求めているのである。

 

あまりに情けなくないか。子供に愛をくれとのたうちまわっているのだ。33歳のおっさんが。

 

とはいえ、現状は把握できたことは大きな一歩である。把握できたなら、変えていくしかない。

 

嫌われる勇気の哲人は言う。

 

与えよ、さらば与えられん。

 

私は、与えられる人から与える人にならなければならない。ここらが潮時だ。

 

愛されることを求めるのはもうやめよう。愛されなくても、愛してくれなかったとしても、それは私にはどうすることもできないことだ。

 

私は、愛されなくても、例え嫌われたとしても、子供達を愛する存在になりたい。

 

子供達だけじゃなく、妻もそう。実家の家族もそうだし、周りの人もそうだ。

 

愛されないと生きていけない時代はとっくに終わってるんだよ。ちゃんと認識しなよ、だって自分の足で立って、自分の頭で考えて、自分で道を切り開けるようになってるじゃん。

 

いつまで子供でいる気だ。

人生のターニングポイントである

というわけで、喧嘩の行く末というよりただの自分語りとなってしまったが、私の解決方法は大抵こんなもんである。許してほしい。

 

何より、今回の息子の大げんかで痛感した。

 

成長しなければ、死ぬ。

 

息子の言動や癇癪に生意気な発言とか、細かな問題はある。私にできることはもっと多くあるはずだ。

 

しかしそんな行動を邪魔する「愛されなければ愛さない」という無意識は、まず排除せねばならない。

 

どうやったって邪魔をする。息子だけじゃない、娘に叩かれた時も胸がずきんとする。叩かれて愛されてると感じるわけないしなー。

 

そんなわけで今日、息子に謝罪した。

 

「ごめんね、私は息子にずっと嫌われていると思っていて、イライラしていたよ」

「ずっと好きなのに、僕もごめんね」

 

こんな謝罪も文面で見たら一行だけど、現実は大変なんだぞ!!!

 

あとの問題は、この思考が定着するかどうかということだ。気が緩んだら、こんな大事なこともすぐに忘れてしまうのが人間だ。

 

ブログにしっかり刻んでおかねば!!!