アドラー心理学を生活の中で実践し続けているとんぼである。ごきげんよう。
アドラー心理学の基本をわかってたつもりでも、日々を過ごしていると様々な問題にぶち当たって理解が浅かったと気づくことも多い。
このブログで愛について語ることが多いこの私だが、はて、果たして私は承認欲求をクリアしてるのか?
息子に愛されていないとか最近あーだこーだ言ってたが、その前に考えることがあるのではないかと少し疑問に感じている。
そこで、自身の問題点を思い出しながら現在の考えをまとめていきたい。
認められていないと感じると怒る癖
これは仲のいい友人と話している時によくあったのだが、”私がこんなにやってるのに”認められないと私は怒った。
ここまでやっているのに認めてくれないのか、きっと認めてくれるだろうと思ったのに裏切られた。そりゃひどくないか、ふざけるな!
というのが思考プロセスである。
でもその友人と縁を切ろうとまでは思っていないので、むすーっとして怒り、何も話さなくなるという感じ。
とにかく、私を認めてくれるだろう相手に否定された(と感じると)なら絶対に許せない。
相手の言い分や客観的な事実は関係はない。認められていない、裏切られたということでどす黒い感情に心が支配されてしまうのである。
承認欲求を否定せよ
そしてこの「認めてほしい!」という強い無意識は、親にも妻にも子供達にも感じることだ。
以前に妻がイライラして私をないがしろにしていたので、言ったことがある。
「私は今愛されていないと感じているよ」
確かに、「愛されていない」と感じるのもあるんだけど、これって愛情とはまた違う問題を孕んでいると思うんだ。
要は、承認欲求の話じゃないかということ。
「私はこんなにやってるのに認めてくれない」
「私の苦労を、努力を認めてくれない」
そう感じ取った私は怒りを武器にして、私を認めろ、私をもっと尊敬しろとアピールしているのだ。
くだらないなー。
相手が私のことをどう考えるかなんて決められるものでもないし、そもそもわかるはずもない。口では何とでも言えるのだ。
そして相手に私を認めさせたり、尊敬させるなんて不可能である。「私を認めろ!尊敬しろ!」なんて虚しい遠吠えでしかない。
行き着く先は、認められることを諦めること。承認欲求を否定するのだ。
そもそも私には決められないこと、分かり得ないことを求めても先がない。まずは承認欲求を否定することから始めなければならない。
認められずとも、認めよう
先日書いた記事では、どれだけ娘に叩かれても、どれだけ裏切られても娘を信じ続けようと書いた。
◆暴力が日常茶飯事になった発達障害の娘を死ぬまで信頼してみようの会
それとは少しベクトルが違うのだが、まぁ同じようなもんさね。
相手に全てを委ねてはならない。私の頑張りや努力なんて、他人に100%わかるはずもない。
ならば、私を認めてくれない相手をどうするのか。
家族も友人も親も皆同じ。私のことを例え認めてくれなかったとしても、関係を継続していきたいと考えているのは私なのだ。
相手が認めてくれなくとも、尊敬してくれなくとも、期待通りの反応をしてくれなかったとしても。
それでも私は相手を認め、尊敬しよう。
人から与えられないことに怒り散らすことを卒業して、愛も信頼も尊敬も、私から与えていこう。
そしてこれも練習だよね。急にそんな聖人君子みたいにはなれないから、日常で少しずつ認められていないイライラに気づいて、考えを改める。
そうやって友人関係や親子関係が横のつながりになったら、そこで初めて妻や子供達との「私たちの幸せ」を考えられるのだと思う。
承認欲求が邪魔して、どうしても「私の幸せ」ばかり追い求めてしまうんだよねぇ。
「私たちの幸せ」って、相当難しいよ。だって妻に認められなかったら、超絶むかつくもん。