本日は寝不足で頭が回らないとんぼである。ごきげんよう。
なぜ寝不足かと言えば、久々にコールセンター時代の友人と深夜3時までひたすら語り合っていたからだ。
そこで様々な自分の無意識に気付かされ、私が今抱えている問題点を解決できそうな気がしている。まぁ、人間関係の話だ。
今回はまず、私の苦手とする人間関係の悪癖やその暫定の解決策をアドラー心理学も踏まえて記していきたい。
とんぼが抱える人間関係の問題点をあぶりだす
私が抱えている問題はかなり多くある。
息子や娘に対してだけじゃなく、実家の母や学校の先生などなど。こういった人間関係の問題点をいくつか紹介する。
息子の愛を、受け入れられない
今回気付いた大きな問題点がこれ。私の息子は、ステップファザーである私のことが大好きだ。
いや、びっくりするぞ。このブログでは喧嘩をしたりイライラしたことばかり書いているが、息子の私への好意は異常だ。
ママよりもパパ。テレビが見られないならずっと私に付きまとい、あれしようこれしようとひたすら話しかけてくる。
公園でも私がついていかないと遊ばないとか、車のドアを私が開けなきゃ満足しない、トイレでお尻をふくのもパパじゃなきゃイヤ。
こんな風に、ものすごい勢いで好意を向けられている。誰がどう考えても、私のことが好きなのだと思うじゃないか。
でも、無理なのだ。受け入れられない。重すぎる。私は君の期待には応えられない。
そんな無意識がある。
息子の好意を受け入れるのが怖いのだ。私には、その真っ直ぐな愛に応える自信がないのである。
人と良好な関係を築く自信がない
次も結構重症な問題だ。私は、人を見て自分の態度を決める節がある。
高圧的だったり、ずけずけ物をいったりする人の前に立つとど緊張して普段通りの振る舞いはできなくなる。
びくびくして怯え、頭が真っ白になり、どうしていいかわからないとパニックになる。
これも考えたのだが、結局はそういう相手ってのは”仲良くしたくない”相手なのだ。
というより、仲良くできる気がしない。仲良くできる自信がない。この人が私を認めてくれるはずがないし、この人と今後も良好な関係を築いていけるとは思えない。
仲良くなってもいずれは嫌われる。
それなら最初から大きな大きな壁を作って、「お前には絶対に心を開かないぞ!」と主張した方がいいでしょ?
そんな対応をされた人間が、私と仲良くしようなどと思うはずもない。つまり、それは私にとっては非常に役に立つ処世術。必要なことだという結論に至る。
親の愛も受け入れられない
さらに、私は子供の頃から親に愛されているとはずっと思ってこなかった。
30になって初めて母から「愛しているよ」という言葉を聞けて、非常に嬉しかったという経験がある。
だが、そんな言葉を聞かずとも、わざわざ言質を取らずとも。親が私を愛している、認めてくれているのは疑いようがない。
今考えればわかる。愛がどうとか好きだとか一切言わなかった今は亡き父も、きっと私たち兄弟を皆愛していた。
愛そうとしていた。それがわかる。
でも、それを認められなかった。認めたくなかった。何でかって?その方が都合がいいからだろう。
褒められても嬉しくない、認められても受け入れられない
さらにさらに、私は誰かから褒められても認められるような言葉を投げかけられても、あまり信用しないし受け入れない。
いや、まだまだだよ。こんなもんじゃ全然ダメ。誰も認めてくれるわけがないだろう。
そんな風に、自分を認める他者の言葉が私に響くことはない。以前に外で働いていた時も褒められまくったが、心が満たされることはなかった。
愛されていない自分が安心する
思考の癖をいくつかご紹介してきたが、結構な重症であることが読み取れる。
そしてこれらの共通点はといえば、愛されていない・認められていない自分の方が安心するということ。
自分が誰かから愛されていて、認められていることを受け入れてしまったらこの先どうするよ。
いつか裏切られてしまうかもしれないし、嫌われてしまうかもしれない。そんなの耐えられないじゃないか。
息子の強すぎる愛情を受け入れてしまって、私が息子の期待通りのパパを演じられなかったらどうなる?嫌われてしまうじゃないか。がっかりされるかもしれないじゃないか。
そうなったら、私の心が耐えられない。
高圧的な存在の人が私を認めてくれるわけがないし、良好な関係が築ける自信もない。どうやって仲良くするんだ?
絶対に嫌われる。無理だよ、私なんかが仲良くできるわけないんだから、最初から壁作ってた方がまし。
そう。私には無理なのだ。だからこそ、誰かに愛されていること、誰かが認めてくれていることを絶対に受け入れるわけにはいかない。
いつか絶対に嫌われるから。
うーむ。逃げの一手。負け犬の思考。そんな思考の癖が私には刻まれているということだ。
愛される勇気とは
ということで、自分のそんな無意識に気づいたのだが今後の私は一体どうすればいいのか?
考えに考えた結果は一つ。それは、愛される勇気を持つことだ。
ずっと愛され続けることはできないかもしれない。他者からずっと認められ続けることももちろん、絶対に嫌われないなんてこともない。
それでも、それでも愛されている・認められているということを受け入れるために勇気を振り絞るのだ。
最初から逃げるのではなく、受け入れて向き合ってみよう。
裏切られてもいいじゃないか。嫌われることだって、私が決められることではない。それは私にはどうすることもできない。
自分にできることをやって、それで嫌われたなら仕方がない。私は私にできることをやるしかない。
現状、嫌われることを恐れてあらゆる可能性を潰してしまっている。
息子の愛を受け入れれば、何があっても壊れない信頼関係が育めるかもしれない。高圧的な人間だってこちらから心を開いてみれば親友になれるかもしれない。
もったいないよ。やってみる前から逃げてばかりじゃ、人生の損失としか言いようがない。嫌われることを恐れてばかりじゃ、前に進めない。
結局、愛される勇気を持つことは、嫌われる勇気を持つということなのだと知る。
永遠に愛される保証なんてないけども。それでも人の愛や承認を受け入れる姿勢が必要なのだと思う。
私には、世の中の人が敵に見えているんだろうね。
勇気の心理学
このブログではよくアドラー心理学になぞらえて体験談や思考を考察しているが、今回のこの気づきはかなり面白かった。なぜなら、
アドラー心理学は別名、勇気の心理学だからだ。
息子の愛を受け入れられないこと。ある特定の人物に心を閉ざしてしまうこと。他者からの賞賛を受け入れられないこと。
これら全て、私に受け入れる勇気がないだけだ。私はびびっているのだ。自分が傷つくことに。自分が嫌われることに。
この問題の解決方法ってのは本当に簡単な話だ。
勇気を出して、選択をし直すしかない。
怖くて怖くて仕方がないこともあるだろうが、それでも私は前に進みたい。
それが、勇気の心理学を実践しようとする私の基本姿勢である。
いやー、神がかった記事を書いたわ。寝る。