毎日のように自分の心の中を分析しまくっているとんぼである。ごきげんよう。
分析しまくった結果、さらに深い部分を見つけたりして昨日と今日で言ってることが全然違うことがある。
ブログを順番に読んでいれば、ただの情緒不安定な人にしか見えないかもしれない。ただどれもその時の本気の私だ。
そして今回は、息子からの愛情を勇気を出して受け止めてみた話をしたい。
息子の話というよりも、自分語り多めなので注意されたし。
息子の好意に対する嫌悪感
息子は父である私が大好きである。それはもう、周りから見たら明らかに「パパ大好きな息子」という感じ。
でも、私はその息子から発せられる好き好き光線がはっきり申し上げて嫌いである。
いつも「いいお父さん」風に書いている私だが、それは子供達と適度な距離感を持っている時の話。
お互いがお互いに干渉せず、いい感じの距離感を保っているならわだかまりも何もない。ただ、ぐいぐいと一線を超えられるとイヤになってくる。
ここでは息子の行動や、それに対する私の非情な対応をいくつか見ていこう。
逃げ出し意地悪するお父さん
昨日も書いたが、息子の好きというパワーというか、かまってほしいというパワーがすごすぎて受け止めきれない。私には抱えきれない。
必ず私と手をつなぎ、私とテレビを見たら私のひざの上に座り、暇があれば抱っこしておんぶしてじゃんけんしよう。
妻にはそこまで遊びをせがんだりすることはない。私にばっかり来るもんだから余計に嫌悪感が増す。
やめろ、こっちに来るな。話しかけるな。
そんな嫌悪感が湧き始め、最初は相手をしてもだんだんとイヤになって私は走って逃げたり意地悪をして追い返したりする。
膝の上に座らせないお父さん
義母の家に行くと義母がなんでもやってくれるため、子供達と一緒にTVを見る時間が増えたりする。
そうなると息子はソファから降りて私をソファ代りに座ってこようとするのだ。うーむ、いかにも親子って感じだね。
でも、それは断固拒否。本当に嫌だ。こんなにベタベタされたくない。勘弁してくれ。
といった嫌悪感を感じる私は、息子が座ろうとした瞬間にすっと身をひき、ストンと床にしりもちをつく息子を何度も見てきた。
あ、でもこれ、無意識の話だからね。無意識の話ってよく書くけど、「意地悪してやろう!」と計画的にやっているわけではないということ。
こういう状況があったら、自分でもわからないけどなぜかどす黒い感情につつまれてそういう行動をとってしまうという話である。
無意識を意識するって、難しいんだよ。マインドフルネスなんだよ。
絶対に目を見ないお父さん
そしてもう一つ。これは以前に記事にしたと思うのだが、今でも私は息子の目を見ることはない。
息子は遊びをせがむ時、きっとキラキラとした目で私を見つめているのだろう。
だがその表情を見たことはほとんどない。見ない。というか、見れない。視線から発せられる好き好き光線が眩しすぎて直視できない。勘弁してくれ。
そして私は逃げて行くのである。これは物理的に、走って逃げて行くぞ。その結果鬼ごっこになることも多いくらい、私はよく逃げて行く。
だって、耐えられないんだもん。
受け入れたあとに拒否される恐怖
人が私をどう思うかは、私が決められることではない。
これが私に根付いている基本思想である。誰かに嫌われても、怪訝な顔をされたり微妙なリアクションをされても、以前よりダメージを受けなくなってきた。
しかし、それはどうでもいい他人の話。
一度相手から認められていると認識した相手に嫌われるダメージはその比じゃない。
思い返せば、今までにそんなことがあった。いくつか紹介すっぞ!
母親に否定された話
中学時代に不登校になって、高校にも行かずに一年ふらふらしていた時期にやる気を出して勉強を始めたことがあった。
でも集中する方法や環境とか、何も知らない私はまったく勉強が手につかない。そのことを母親に相談したのだ。
「どうしても集中できないんだよ!勉強したいのに!」
そう告げたあとの母の言葉をはっきり覚えている。
「バカだからじゃないの」
絶句という言葉がぴったり。あぁ、もうこの家にはいたくない。今すぐ出て行きたい。そう本気で思ったりした。
親友になると思った友人の話
夢を追いかけ勉強しながら働いていた時の職場の友人の話。
いわゆる親友になれそうなほどに相性がよく、夢を語り、未来を語っていたりした。
だが当時の私も勉強の仕方がわからない。3歩進んで2歩下がるという毎日を送り、いまいち勉強が進まずにいた。
そのような状況が続いてどうすべきかわからんと愚痴をこぼしていた時に、友人からこう言われたのだ。
「とんぼさんには無理だと思いますよ」
そうか。お前もか。怒りというより、悲しみしかない。
コールセンター時代の友人の話
他にもあるよあるよ。私が本気で悩んで苦しんでいて少しずつ前に進んでいた時、よく悩みを聞いてもらっていた友人に言われたぞ。
「とんぼは口だけで、何もやろうとしていない。悩んでいるふりをして人に相談ばかりしてくるくせに、変わる気もない。行動も遅い。もうとんぼの話は聞いても意味がないから、聞き流そうと思っている」
これね。今までの人生で多分これほど怒ったことないんじゃないかなってくらいにぶちぎれた記憶が鮮明に残っている。
よく乗り越えられたなと思う。
裏切られたら私の心は耐えられない
そんなわけで、もし息子の強すぎる愛情を受け入れてしまったあとに、息子に裏切られたら私の心は壊れてしまう。
「この子は私のことを愛してくれている!」
この無防備な思い込み、怖くないか。ATフィールドの中に息子をいれてしまって、そっから嫌われたらどうするんだ。死んでしまうぞ。
というのが私の無意識の判断じゃないかなーと思う。
ただ面白いのは、発達障害でのほほんとした娘には一切そういった感情がわかないし、大人で時間をかけて愛を育んできている妻にもあまりそういう恐怖を感じない。
妻と娘なら目を見られるし、娘に大好きーとハグされたらほっこりする。
息子に大好きーとハグされたら拒否したくなるし、息子だけ目が見れず、逃げ出したくなる。
つまりは、息子と今後もうまくやっていける自信がないということだ。いつか絶対に裏切られる、嫌われると思い込んでいるから逃げているのだ。
そういう意味では、妻と娘が私を裏切らないことを心から信頼しているとも言えるな。
勇気を出すしかない!
こうやって色々と書いてきたが、息子の目を見ようとしない自分なんて普段まったく意識していないし、ぐいぐい来られた時の拒否感も気づかないことも多い。
じっくり考えてみたら、そういう行動や感情が湧いているよね。という話だ。
でもそこに気づいたらやるしかない。びびって諦めるのではなく、息子の愛を真正面から受け止めるしかない。
だって今の息子が私を愛してくれているのは明らかなのだから。
勇気を出すのだ。例えいずれ嫌われることになったとしても、ずっと愛されるとしても、それを決めるのは私ではない。
私に決められないことをあーだこーだと悩んでも仕方ない。
嫌われることを受け入れることと同じように、愛されていることも受け入れるのだ。
嫌われる覚悟はとっくにできている。ただ、愛されていると認めた上で嫌われる覚悟ができていないだけ。
変えられないことばかりに注目して逃げるのじゃなく、今、素直に私に向けられた愛を受け入れるのじゃ。
勇気がくじけた時に気付けるかが今後の勝負
ということで、昨日辺りから勇気を出して息子の愛を受けいれる姿勢を見せた。
息子と一緒に過ごすとところどころ「うっ」となる部分があることに気づくが、気付いたら勇気を出して受け入れる。
それを何度も何度も繰り返した結果、息子の目も見られるし、膝の上にのせて一緒にテレビを見ることもできた。
そして嫌われるかもしれないという恐怖を感じつつも、私の主張をはっきり述べる。息子がそれでどう感じるかは、息子が決めること。
自分が正しいと思う行動をとって、そして相手からの素直な反応を全て受け入れよう。
これができて、初めて子育てのスタートラインという感じだね。
ただ問題があるとすれば、この勇気がいつの間にかくじかれてしまう可能性があるということだ。
今はいいが、一週間後、一ヶ月後に同じような勇気を出せるかと言えばとても怪しい。勇気というのは、簡単に引っ込んでしまって元の私に戻ってしまう。
そうなんだよね。アドラー心理学が勇気の心理学って言われているのはよくわかる。
結局は、自分を変えるのに必要なのは勇気を出すことなのだ。
いやー、アドラー心理学って本当に噛めば噛むほど味が出るなー。実践する甲斐がある。
あと10年くらい実践すれば、今よりいい感じになってると思うよ。