ステップファザーにできること

重度知的+発達障害の娘と、二人のやんちゃ息子の父によるステップファミリーの話

子供達を信頼するとはどういうことなのか考える会

最近は子供達と本気でぶつかってる感のあるとんぼである。ごきげんよう。

 

ブログに「心」を素直に書いていこうと決めてからは、少しずつ人の目を気にせずにクソ親にしか見えないことも書くようにしている。

 

ちょっと頭の中ばかりを書きすぎている気がしないでもないが、そういう時期もある。

 

子供達と向き合いながら、毎日毎日考え続けているのだから。

 

そこで今回は、子供達を信頼するとはどういうことなのか。少し書いていきたい。

愛されていると信じてないの?と言われた怒り

先日友人とがっつり話してる最中に何度か声を荒げて怒ったのだが、その時の怒りを色々と分析していたりする。

 

なんでこんなにムカつくんだろう。なんでこの言い方に声を荒げるほどに腹が立つのだろうか。

 

その一つが、この発言だ。

 

「あー、とんぼは息子くんの愛情を信じてないんだ?」

 

こう言われた私はかっとなり、

 

「違います!息子が私のことを愛しているかどうかは、私には決められないし誰にもわからないし息子にしかわからないんです!信じてないとかじゃくて、それはわからんけども、私は愛していこうって話ですよ!!」

 

と声を荒げて否定したというエピソードである。ステーキ屋で肉を食べながら声を荒げる私に、隣の席の人がドン引きしているのが見えた。まぁそういうこともある。

 

よくよく考えれば、こんな話自体あまりするものではない。頭のおかしい人に見えたかもしれないが、それが私である。こんな私が好きよ。

 

この友人が別に間違っていると言いたいわけではない。話の流れもあって私のクズエピソードを話したあとだし、人はそれぞれ持論を持っていてどっちが正しいなんてこともない。

 

ならばなぜ私はこの発言にこんなにむかついたのか。つまり、私の問題ということなので考えねばならん。

愛する自由、愛さない自由

息子とも最近口論しあうことも多いのだが、私は人は誰しも「自由」だと思っている。

 

それは心の話だ。行動に制限はあるかもしれないが、心だけは自由なのだ。誰を好きになるのも、嫌いになるのも。愛するのも憎むのも、それはその人の自由。

 

周りの影響も親の影響も大いにあるかもしれないが、どう感じるかはその人の自由で、いつでも決断できるのだ。

 

ただ子供はなかなか難しい。親に愛されないと生きていけない分、どうしても親に好かれるための決断をしてしまう。

 

それも少し大人になれば、選択をし直すこともできる。

 

借金漬けの父親が全ての元凶だ!と憎むことで自分が安心できるなら、当然のように死ぬまで父親を憎み続けるという決断をするだろう。

 

大人になって、親に幻滅して、縁を切る。親とは2度と会わない、顔も見たくない、自分の足を引っ張る邪魔な存在。全ては親のせいだ、と決断することもできる。

 

どのような決断を下すのも子供達の自由だ。

 

それなのに「息子が私のことを愛していると信じる」とはどういうことじゃ!!!と怒ったのがこの私、「自由」に敏感なとんぼである。

 

つまりは親を愛するかどうかも子供達が決められるってことが、どうしても言いたかったわけです。

 

とくに私はステップファザーで子供達と血が繋がってないこともあって、子供達の自由意志に任せたいという傾向が強い。

 

そして「子供が愛してくれていると信頼する」ことに違和感を感じる私は、やはり子供達を信頼しようとしている。

 

はて、では私の中での「子供達を信頼する」ってのは、一体どういうことなんだろう?と改めて考えてみたわけだよ。

何があってもその人の存在を認めること

つまり私が言いたい信頼ってのは、息子の心とか感情とか行動は一切関係がない話だということさね。

 

息子が私を愛さなくても、愛してくれたとしても、裏切ったとしても、例え犯罪に手を染めたとしても、私を殺しに来たとしても、それでも息子の存在を認めていこうということだ。

 

どんな決断をするかは全て息子の自由で私には決められないからこそ、存在を認め、信じ続けるという姿勢を持つこと。

 

どんな君も認めよう。何があろうと、君という存在があることが嬉しいんだよ。

 

それが信頼で、愛情で、親に与えられた最大の仕事なのではないかと思う。

 

これは私の中の定義でいわば理想の話だよ、それを今できているかは不問にしてほしいぞ。

発達障害の娘との関わりの変化

ちょっと前に記事に書いた娘の暴力の話がある。

◆暴力が日常茶飯事になった発達障害の娘を死ぬまで信頼してみようの会

 

この記事のことを実践してから、だんだんと私と娘の関係がよくなってきた。ついでに妻と娘の関係もかなり良くなっている。

 

今までは叩かれた時にはムカついてイライラしたり仕返しをしたりしていたのだが、最近は「痛いよ、やめて」と冷静に注意できるようになった。

 

そう言うとどうだ。娘はやめてくれるのだ。おまけで1~2発叩いてくることもあるが、大抵の場合はすぐに手を止める。我慢しているのが見て取れる。

 

そうやって毎日毎日続けていくと、娘の手が出る頻度がかなり減ってきた。減ってたし、今になって思う。以前の私はどこかこう思っていたのだ。

 

どうせ娘の暴力癖は治らないだろうな。

 

そう漠然と感じながら対応していたように思う。だが今は少し違う。今は、なんというか。

 

この暴力はいずれ治るだろうし、治らなくてもいいよ。娘は娘なんだから。

 

そんな感じになった。仏の域に近づいているな。

 

すると、娘との関係は驚くほどに良好になって明らかに叩かれる頻度が減った。顔を近づけたら私の顔を触ってくるし、寝室で寝てたら抱きついてきたりする。

 

だから、そう。いいんじゃないか。私のことをどう思っていても、どういう存在であっても、何があっても、認めていこうよ。それこそが信頼で、愛情なのだ。

信頼するために乗り越えるハードル

以上、「信頼」とはなんぞやーという頭の中を記してきた。

 

そして今の私は、信頼とかそういう問題以前のハードルが超えられずにいるのである。

 

私はまだ子供なのだ。実家で親にずっと愛されたい。誰かに愛され続けたい。認めてもらわなきゃ生きていけない。そんな子供だ。

 

親として子供達を愛するためには、まずは私が成長して超えなきゃならない問題がある。勇気を出して変えていかなきゃならないことがある。

 

今回息子からの好意を受け入れようと勇気を出して、息子との関係も良くなりつつあるが、それも数ある問題の一つにすぎない。

 

私も妻もまだまだ子供で、自立できていないのだから。

 

でもまぁ、そんな急に全てを解決できないからね。こうやって地道に一つずつ潰していくしかないのだ。

 

楽じゃないけど、楽しい道なんだよ。あまりおすすめしないけど。