風邪を引いてGWの最終日をダウンしていたとんぼである。
だが頭ははっきりしていて、最近はずっと自分自身の中の怒りについて考えている。
息子の愛情を受け止める勇気についてこれまで書いてきた。そして息子と向き合おうと本気で考え続けた結果、少しわかったことがある。
それが、怒りである。
これまで不安や恐怖については様々な分析を行ってきたが、怒りについてここまで考えたことはない。
何で私は怒っているのか、何に対して私は怒っているのか。身体もだるく気分ものらないのでちょうどいいテーマだ。
自分語り大好きなので長くなるが、現段階での結論を書いていこう。
アンガーマネジメントで学ぶ「べき」の排除
最近知ったアンガーマネジメントで学んだ話なのだが、人は「〜はこうあるべき」という考えに固執することで怒りが芽生えるとあった。
自分の価値観が他者と合わないことなんてざらになる。友達でもそうだし、夫婦だって親子だって価値観の違いがある。
例えば、先日妻と論争した「家族はご飯を一緒に食べるべき」というのは私の価値観であって、妻の価値観と一致せずに喧嘩になった。
世の中にも溢れている。料理は女性が作るべきとか、バスの中で高齢者には席を譲るべきとか。
多種多様な価値観があることは別にいい。ただ問題は、他者の価値観を許せないと怒りが芽生えてしまうということだ。
このアンガーマネジメントの基礎を学んだ上で、自分の日常とか最近友達にかっとなって反論したことなど今までの自分の怒りを振り返ってみると、色々と気づくことがある。
気に入らないと声を荒げる癖
子供達に対して、私が声を荒げることはほとんどない。完全に怒りがピークを超えたら、ムスーっとしてあとは自分で解決して終わり。
なのだが、先日友人と話して少し気になった。私はふっつーに、友人の話に声を荒げて怒りを表現したのである。
何で声を荒げたかと言えば、当然、自分の主張を押し通すのが目的だろう。それ以外ない、威嚇したのだ。
このようなことは今までに何度もある。特に母親に多い。母が私の気に入らないことを言った場合、私は声を荒げてまくし立て、母親を論破する。当然、妻にもある。
他にも、仲のいい友人が実は熱心な某宗教の信者で、突然天国にいけると数十万の儀式に誘われた時もぶちぎれた。
さらに、幼馴染が天国にいける「正しい行い」について話してきたので、正しい行いってなんだよ、誰が決めるんだよ!とブチギレ、深夜まで噛みついていた記憶がある。
ふざけんな!お前の考えは絶対に認めない、何が何でも叩き潰してやる!
今までそうやって何度も怒ってきた。今回話した友人や母は大人だ。声を荒げて怒ったら「そうなんだ」と張り合うことなく抑えてくれたのがわかる。
結局、他者の価値観や考えに首を突っ込んで、「私が正しい!お前は間違っている!」と叫んでいるのが私なのである。
でも、子供達に声を荒げることはまずない。何でだろう?
親になってから
息子や娘が私の気に入らないことをやったり言ったりしても、声を荒げて子供達を威圧することはほとんどない。ないよね?ないはず、多分。
子供達に怒りを露わにすることが少ないこともあって、私は子供達に対する感情をコントロールできているものだと思っていた。
ならば息子に意地悪したり、テレビを見せたくなかったり、喜ぶ姿を想像するとむかつくのはなぜか。
そうだね。多分、私はずっと息子に怒っていたのかもしれない。息子の発言や行動は、私の価値観では絶対に許せないことばかりなのは明白だ。
一人でお風呂に入るのも、家族がいるのに一人だけ好きなYouTube見るのも、娘も見ているのにリモコンを好き勝手にいじるのも。
これら全て私の価値観から外れている。家族と一緒にお風呂に入るべきだし、家族がいるならみんなで楽しめる番組を見るべきだし、娘が見ているのに何も言わずにリモコンを触るべきではない!
許せないが、この子は幼児である。声を荒げて怒るのは大人気ない。こんなことで怒りも表現できないし、かといって話しかけられて無視もできない。対応せざるをえない。
こっちはイライラしてるのにお構いなしに遊ぼうとぐいぐい好意をよせてくる、どうしよう。そうだ!嫌がらせしよう!(ピコーン!)
といった感じ?わからないが、息子と向き合う勇気を出してみてわかる。私は息子に対して、相当な怒りを感じている。多分、毎日のように。
そして子供に怒るべきではないという自分も確かにいて、もがいているのだろう。超絶ストレスじゃない?早死にしそう。白髪も多いし。
ちなみに娘は叩かれた時以外はほとんどムカつくことはない。これもまた今後考察したい。
距離が近くなるほど課題の分離が難しくなる
そして今日、体調不良でダウンしていた私がまた子供達にイライラしていたため、妻が怒っていた。
一日中妻と子供達だけで出かけたにも関わらず、だるそうでイライラしている私が気に入らなかったようだ。そりゃそうだ、と思うよね?
でも私も妻のその怒りに対してかなりの怒りを感じたのだ。あ、こりゃやばいなと察知して、妻に少し時間をもらってこの怒りを分析してみた。
すると、私がもつ「べき」に気付く。
妻は、私の苦労や努力を認めるべきだ
朝から体調不良だし、GWは仕事もそこそこやってほぼ毎日のように遊んだし、妻が仕事の時は一人で子供達も見た。さらに今週は妻が夜に帰ってこない日が二回もある。
私はこんなに頑張っているのに、何でわかってくれないんだ!?
これね。この怒りだよ。先日友人に怒ったのもこれが一つの私の価値観だからだ。
これはつまり、課題の分離ができていないのだ。私は他者の課題、すなわち価値観や考えまで私の思い通りにしたがっている。
他者の考えが自分の思い通りじゃないことに怒っているのだ。
何でこんなことに気づかなかったのかと言えば、面白いもんで。
他人の考えは自分には変えられないという信念は確かに私の中に根付いている。それは私が決めることではない、と冷静に考えられる。
でもそれは、私とは距離の遠い他人の話。友人や家族など、距離が近くなると様子が違ってくるようだ。
自分には変えられないという考えよりも「こうあるべき!」という考えの方が勝ってしまうのである。
小難しく書いているけども、単純に身近な人間は私のことをわかってくれるし、期待してしまうということさね。
諦めることも必要だと知った
以上、自分の怒りについて記してきた。
他者の価値観や考えが自分の思い通りにならなくても仕方がないと受け入れている反面、家族や友人など、距離が近ければ近いほどに受け入れられない、諦められない自分がいるのだ。
そう。私は諦めきれないのだ。この人ならわかってくれるはず、この人なら……っ!
ふむ。「諦める」って言葉は好きじゃないのだけどさ、これって諦めるところだよね。
他者は自分の思い通りにならないし、それこそが「自由」でしょ?みんながみんな私の思い通りになったら、この世界つまらないじゃん。
私とおんなじ価値観、思想の人ばっかりいて何が面白いの?私を認めてくれる人、認めてくれない人、愛してくれる人、興味をしめさない人。
そんな人たちがそれぞれ自分の思うままに生き、繋いでいくこと。それが、私の思う楽しい世界である。
つまんないこだわりなんだよね。他者の思いにしがみついてどうすんだって話。諦めるとかじゃなくて、そもそもしがみつく意味がない。
私は私にできることに集中するという、ただそれだけだ。
考えはころころ変わるけども、家族と本気で向き合っているからこそであるぞ。
とりあえず、一歩前進したね。あーくだらない。