ステップファザーにできること

発達障害の娘とやんちゃ息子の父によるステップファミリーの話

「楽しんではいけない」「幸せになってはいけない」という無意識の話

娘のてんかんが7回以上あっててんやわんやだったとんぼである、ごきげんよう。

 

身体がもう動かないので仕事辞めるつもりだったが、娘のてんかんで辞めざるをえない流れになった。毎日まとまった時間の仕事ってのは、やっぱ厳しいねぇ。

 

とりあえず娘の命に問題はなさそうなのでそれはまた今度書くとして、毎度の自分語りを書いていこう。

 

休養を意識してとった結果、色々と自分の無意識に気づいた話だ。

楽しいことあった?

最近息子がどこで覚えてきたのか、私や妻に「今日楽しいことあった?」と聞いてくるようになった。

 

実際に考えてみたのだけど、ないんだよね。楽しいことなんて。

 

そしてこのブログで日記を書いて「楽しかった!」と書いたこともほとんどなかった。調べたら、感想として「楽しかった」と書いてるのが280記事の中で2つだけ。

 

あまりにも少なすぎない?私はこんなに毎日を楽しくないと思っているのかと自分でも驚愕する。

 

そしてよくよく考えてみても、やはり楽しくはない。勉強になった、面白い話ができた、頑張った!といった感想はあっても、楽しいのとはまた違う。

 

ちなみに結婚一年目に妻と二人だけで東京ディズニーランドに新婚旅行に行ったのだが、それも楽しかったかと言われれば微妙である。

 

私にまったく元気がなくてホテルに飛行機の予約まで全て妻に任せ、ディズニーランドでもダウンしていて妻も呆れていた。マジで甲斐がない。

 

とにかく、楽しかったという思い出があまりない。どんなに楽しそうな時間でも、どこか憂いを帯びた自分がいる。なんでだろう。

自分の存在は認めても、許せるわけではない

過去に書いた記事であるが、

◆自分を認めることと子供を認めることの違いに気付いた話

 

この記事にて、自分で自分のことを認めよう。これまでの行動だけでなく、自分の存在ごと認めていこう!と結論づけている。

 

それからは意識して自分を認めるようにしているし、自分の存在に感謝している。ありがとう。

 

ただ、認めているからといって全てを許しているかと言えば別のようだ。

 

私が心から笑って、幸せそうにするのはどうしても許せない。私は楽しんではいけないし、幸せになってはいけない。

 

そんな無意識がある。楽しいことないかな、どうやったら幸せになれるかなと考え続けているにも関わらず、それと相反する無意識を持っている。

 

なんなんだこれは。でも確かにあるんだよ。楽しんじゃいけない、幸せになったらダメだって。

原因論を考える

まず原因論を考えてみよう。なぜこのような思考になったかといえば、だいたいわかっている。

 

それは、荒れた中学時代のことを悔やんでいるからだ。

 

一般的なイジメ(水かけたりとか殴ったりとか)をやった記憶もないし不良でもなかった。ただただ友人数人とつるんで偉そうにする嫌なやつだった。

 

当時の私に傷つけられた人が多くいるのはわかっている。私のことを憎んでいる人もいるだろうし、私のせいで人生に悪影響があった人もいるはずだ。

 

その後ひきこもり生活に入って、かなり自分を責めた。時間だけはあるからね、死ねばいいのに。何で私が生きているんだ。生きてちゃダメな人間だ。

 

そう考えながらひきこもっていた。死にたかったけど、死ぬ勇気がなかった。

 

そのような流れがあってね、私が笑って幸せにしていたら、傷つけられた人たちが報われないでしょ?納得するわけないし、絶対に許されない。

 

そう。私は幸せになってはいけないし、物事を楽しんではいけないし、暗い顔をして生きてなきゃいけないと私が判断した。

 

そんな流れなのだと思うよ。

目的論で考える

おなじみアドラー心理学の目的論でこの問題を考えてみたい。なぜ私は楽しんではいけない、幸せになってはいけないと思っているのか。

 

その答えは多分、許してほしいからだ。

 

過去の過ちを悔いている。本当に申し訳ないと思っているし、目の前にいたら謝罪するし、とにかく悔いている。

 

だから、私が笑ってたらダメじゃん。幸せになったらダメだよ。下を向いて心から楽しむことなく不幸でなきゃ。

 

そうでなきゃ、許してくれないよ。

 

……1日考えた結果、だいたいこのような思考なのかなと思う。

 

若かりし頃に、恨まれて嫌われる覚悟もないくせにヘラヘラして人の尊厳を傷つけた。それを何とか、何とか許してほしい。これだけ反省しているんだから。

 

ふむ。

 

でもさでもさ、現実の話をすれば、もう過去は変えられないんだよ。私が犯した過ちは、もう元に戻ることはないんだよ。

 

そして私が下を向いて不幸であっても相手が許してくれるかどうかなんてわからないし、そもそも何も思ってないかもしれないし、それはもうわからない。

 

そして一つ、私には覚悟できていないことがある。それは、

 

何をやっても一生嫌われ、恨まれることもあるということ。

 

それに上で荒れた中学時代の話を書いたが、それは私が覚えている人たちだけの話だ。実際には私が気づかないうちに、大きく傷つけてしまった人もいるだろう。

 

もはや、私にはどうすることもできない。過去は変えられないし、私は私にできることをするしかない。

 

そのできることが、下を向いて不幸であることか?

 

ちょっと違うんじゃないか。過去にこういった過ちを犯したからこそ、その過ちを反省し、学んだ上で次に繋げていけるのではないか。

 

というかもう、それしかない。今後同じ悲しいことが起きないように、できることはまだあるはずだ。

 

そしてもし今後の人生で、私が迷惑をかけた人に出会ったら謝罪しよう。

 

謝って、それでも恨まれるならそれでいい。仕方ない。それはその人が決めることだ。

 

結局、自分が最善だと考える行動を全力でやるしかないのだ。

それでも自分が許せない

とかなんとか色々考えてきたが、それでも自分のことは絶対に許せない。

 

もはや過去のことはいい。それはもう諦めるしかない。一生恨まれ、嫌われることを受け入れよう。

 

じゃあ今の私が笑っていいか?幸せになっていいか?と問われれば、やはりNoである。

 

私が私を許したくない。こんなクソ野郎、絶対に許さん。お前は不幸であれ、笑うな、幸せになるな。

 

そのような無意識の声が聞こえる。すごいぞ、このパワーは。

 

なぜ私はこんなにも自分を許したくないのか、その目的は何か?

 

と考えると、やっぱり、今の方が楽なんだよね。下を向いて不幸をまとっていれば、みんなが許してくれるって思ってるんだよ。

 

笑って幸せそうにしてたら許してくれないと、余計に恨まれて自分が傷つくと思っている。結局は、自分のためなんだよね。しょーもない。

 

嫌われて憎まれて生涯恨まれたとしても、歯を食いしばって最善を尽くす。それしかないじゃん。

 

ていうか、不幸であれ、物事を楽しむなって自分で決めたんでしょ?自分で決めた縛りで勝手に満足してるんだぜ?あのさぁ…

 

ぬるすぎて吐き気がするわ。これも結局は、勇気の話か。

 

もう少し考えたい。