愛されないと生きていけないとんぼである、ごきげんよう。
幼少期から、拒絶されたと感じると異常に落ち込んでしまう。怒りに変わることもあるし、拒絶された相手とはもう関わりたくないと思ってしまう。
でもこれが通用したのは新しい家族ができる前までの話。愛されなければ生きていけない人から、愛する人へと変わっていきたい。
拒絶は日常に潜む
これまでも拒絶されて悲しみ、怒った経験は何度もある。
例えば幼少期から、親に何か冷たい言葉をかけられると長時間無視するのが定番だった。親が謝ってくるまでずっと無視していた。
10代の後半には、兄とゲームをする約束をしたにもかかわらずスルーされた時にはあまりに腹を立て、それから数年間兄と口を聞かなかったことも。
あれは兄に拒絶されたのか?といえば、おそらくそうじゃない。ただ面倒くさかっただけだろうし、私の存在を否定するつもりもなかったはず。それなのに激しく怒りを覚えたのだ。
当時は私が子供だったからまだいい。だが今は、子供がいるのだ。
この子たちは子供で、私は親だ。彼らは何も考えずに約束を破ったりするし、大事な話を聞いてなかったり、時間をかけて作った料理にもずけずけと文句を言ってくる。
その度に私は大きく傷ついている。拒絶されたと、怒りすら湧いてしまっている。もういやだ、お前の顔は見たくないと思ってしまっている。
こんなメンタルじゃあこの先やっていけないでしょ?何度も拒絶されて、その度に傷ついて牙をむいても、相手が謝ってくるわけでもない。もう私は愛される子供じゃないのだから。
それに子供達は、なんで私が怒っているのかすらわかってないというね。笑える。
拒絶を見極める必要があるが
ここで考えたいことが二つある。まず、私がわざわざ傷ついている子供達の行動・言動は本当に拒絶か?ということ。
◆「拒絶」と捉えていた娘の暴力を「心の叫び」と解釈してみる会
この記事でも書いた通り、娘の暴力は私への拒絶ではないと解釈を変えてみた。その結果、今のところ娘の暴力に心が傷つけられることはほぼない。
このように、暴力以外の場面でも考え方を少しずつ修正していく必要があるのだろう。
例えば子供達の発言で傷ついた状況を紙に書いて、実際はどうだったんだろうと検討するのもいいのではないか。
拒絶だと感じた子供達の反応を、客観的な事実に照らし合わせて修正していく。本当に拒絶か?ただやりたくなかっただけ、嫌だっただけじゃないのか?など、セブンコラムがわかりやすいか。
今後は拒絶だと感じた案件を徹底的に洗っていき、成功モデルを量産していきたい。
さらにもう一つ。客観的な事実を確認したところ、実際にそれが拒絶だった可能性もある。どう考えても、拒絶としか捉えられないこともあるだろう。
それはもう、受け入れるしかないと諦めよう。受容の精神を育てること。自分には変えられるものと、変えられないものがあると受け入れよう。
そして拒絶された自分をさらに責めるのではなく、自分に優しい言葉をかけられるようにしたい。セルフコンパッションってやつだ。
人に拒絶された自分を激しく罵っていたら、心が死んでしまうのは考えなくてもわかる。私だけは、私に優しくしよう。これは訓練が必要っぽいんで、少しずつ取り入れたい。
拒絶されても成し遂げたいことがある
今回、息子と色々あって、拒絶されたと感じて、もう嫌になってしまっていた。
だがよく考えろ。拒絶されただけですべてが終わってしまうのか?私にできることはなくなってしまうのか?
そんなことはない。拒絶するかどうかは相手次第。その後どうするかはこちら次第。私にやれることは数多くある。拒絶された瞬間に諦めたら、先がないではないか。
日常的な拒絶で立ち止まってたら、どこにも辿り着けんわ。
鋼のメンタルを求めて訓練していきたいね。