ステップファザーにできること

発達障害の娘とやんちゃ息子の父によるステップファミリーの話

「私は親から愛されている」と決めた話

愛着障害を乗り越えたいとんぼである、ごきげんよう。

 

最近のストレス改善で気に入ってやってるスキーマ療法。それプラス、たまたま買ってみた愛着障害の書籍を聞いて、色々と気づくことがあったので記していく。

親から愛されていない!

結婚直前の話になる。私は「親から愛されていない」と感じていることに気づいた。過去に詳細を書いたお気に入りの記事。

www.rabbitonbo.com

 

軽く紹介すると、私を含むきょうだい達4人(全員30代)は皆「親から愛されていない」と感じていた。

 

「愛されていなかった」ではなく、リアルタイムで「愛されていない」と感じていたのである。なんとまあ面白い話。

 

母親に直接「私たちを愛しているのか?」と聞いた気がする。なぜ突然こんなことを聞いたのか、父が亡くなった直後だったことが大きく関係しているだろう。

 

親から「愛しているに決まっている」的なワードも引き出して当時は満足したわけだが……

 

それから5年近く経過した今、やっぱり今でも親から愛されていないと感じている。人とは不思議なものである。

 

自らの心の闇を深掘りしていく上で、どうしても私は愛されていないという気持ちが出てくるもんでね。困ったなぁと、色々と分析してみたんです。

そもそも愛されているってなんだろう?

私に問いたい。愛の定義ってなんでしょう。お前は一体、何がどうなれば愛されていると認識するのか。

 

親から愛しているとの言葉も引き出した。30も中盤に差し掛かった今、五体満足で元気に生きてる。

 

小学生の頃から小遣いも多くもらってた。ゲームも漫画もたくさん持ってた。学校も父のタクシーで何度も送ってもらったし、休日もよく車でお店に連れてもらってた。

 

親が積極的に関わることは少なかったとしても、振り返ればなんとまあ子供らしい子供時代を過ごせた。

 

ひきこもってからも、親は見限ることなくつかず離れず見守ってくれていた。

 

社会復帰してからも、朝の4時から朝食作ったり、毎日弁当つくったり。突然子連れの彼女と結婚すると言い出しても手放しで喜んでくれた。

 

今でも実家に帰ったら美味しい食事とコーヒーが出てくる。

 

このような事実があっても、それでも私は愛されていないと感じている。

 

というよりはもはや「私は愛されていない」という強い信念を持っていると言っても過言ではない。

 

過去の記事を見ても、自分の心の声を聞いても、どこか被害者めいた声が聞こえる。

 

親は忙しくてかまってくれなかった。親と遊んだ記憶なんてない。小遣いはもらってたが、それだけ。

 

母親は夜勤で家ではずっと寝てた。父親は朝から仕事で、夜はテレビとビールだった。旅行に行ったこともない。

 

完全なる放任主義だった。常識も社会のルールも成長する方法も何も教えてくれなかった。

 

あぁ……私は愛されていなかったんだなぁ……(遠い目)

 

といったところ。

 

確かに、親と子供という関係上、親から何かを与えられるのが一般的ではある。ではあるが……

 

大人になった今でも、与えられる子供という意識で生きている。与えられなかった自分を被害者のように捉えている節がある。

 

この意識の中では、当然親が悪い。親は未熟だった。子供4人も産むべき人たちではなかった。できないことをするからこうなるんだよという意識もあった。

 

我ながらひどいもんである。しかし、確かについ最近までは、無意識下でそう感じていた。

むしろ褒め称えるべきではないのか

そんでまぁ、この「愛されていない」と決めつけている意識が、今の子育てにとても悪い影響を及ぼしているようで。

 

子供たちや妻との関係をより良好なものにするためには、よりバランスのとれた考え方に矯正していく必要がある。

 

でまぁ考えて考えて、わかったことがある。まず認めなければならない。

 

両親は、必死で頑張っていたのだ。

 

我々きょうだいが生まれた当時、絶対に男の子を一人以上つくれ!という親戚のプレッシャーがある中で、長女が生まれ、次女が生まれた。

 

ようやく3人目で長男が生まれて、男がもう一人必要だと4人目の私が生まれている。

 

その頃に夫婦揃って自営業を始めたはいいが、赤字続き。

 

母は私をおんぶしながら、他の3人の面倒見ながら切り盛り。父は朝に起きてこなかったと母は当時を思い出してよく怒っているが。

 

なんかもうねぇ、きつかったろうなと思う。二人とも。

 

そもそも4人の子供ってだけで大変なのに、店構えるて。子供たち見てくれる親戚もほとんどいなかったはず。心身がもたないだろう。

 

その後、お金がなかったために父は就職し、母も夜勤の仕事についた。

 

子供達は完全放置状態となり、長女は半グレ、長男は不登校になって末っ子の私まで不登校になった。家の中の4人がタバコ吸ってた。内3人が未成年だ。

 

そんな中で400万以上あった借金を全部返してる。母は寝不足すぎて車で壁に正面衝突して、大怪我もしてる。

 

父も単身赴任してた時期もあった。母に土下座して、心を入れ替えると言っていたとか。

 

うーん。

 

子供の私目線ではなく、客観的にこの状況を考えると……子供に愛情を注いでる場合ではなかった。それが答えではないか。

 

生きるのに必死で、毎日を繋いでいくだけで精一杯。

 

視界の端に問題は数多く転がっているけれども、とにかく前に進むことしかできなかった。心も体も限界だけど、それでもやるしかなかった。

 

そう考えると……これ、むしろ逃げなかった事実がすごくないか?

 

例えばうつ病になって、自殺してても全然おかしくない。突然蒸発して、どこかにいなくなってても何ら不思議じゃない。

 

それでも両親は逃げなかった。逃げずに何とか日々を繋いで、子供たち4人は無事に成人してる。

 

きょうだい皆が様々な問題を抱えていて、幸せと言えるかどうかは微妙ではあるが、それでも生きている。

 

苦しみながらも生きて生きて、もうすぐ全員が40代になる。

 

あぁ、なんて素晴らしい偉業を成し遂げたんだろうと思ってしまう。尊敬と感謝の念で涙すら出てくる。

 

両親が逃げずに立ち向かったからこその結果だ。私たちきょうだいは確かに愛されていたんだろうさ。

私は愛されていると決めました

うだうだ書いてきたけども、愛されているかどうかってのは実際のところわかりようがない。

 

口で「愛してる」と言われれば、愛されているのか?それは違う。

 

「お前のことは愛していない」と言われれば、愛されていないのか?それも違う。

 

愛情とは何なのか。愛されているとは何なのか。考えても明確な答えは出てこない。

 

というわけで、愛されているかどうかは、親の生き様を見て自分が決めたらいいのではないかとの結論を出した。

 

上で書いた両親が過ごしてきた期間を見聞きして、それでも「私は愛されていない!」と言い張ることもできる。死ぬまで恨むこともできる。

 

逆に「私は愛されている」と言い張ることもできる。

 

何を見て、何を見ないのか。そこから何を感じ取るのか。結局は、愛されているかどうかを決めるのは自分しかいない。

 

だから私は、親から愛されているってことに決めた、という話。

 

今なら両親の置かれていた状況が痛いほどにわかるのもある。父はもう死んでしまったが、母親にはちゃんとお礼を言っておきたい。

 

大変だったのに、育ててくれてありがとうございます、って。

 

ここまで読んでいただき感謝。

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