ステップファザーにできること

発達障害の娘とやんちゃ息子の父によるステップファミリーの話

他人の評価で自分の価値を決めるやばさを語る会

評価されたい・ほめられたいとんぼである、ごきげんよう。

 

人から認められることを求めること、すなわち承認欲求。ほとんどの人が承認欲求に苛まれているのではないか。

 

承認欲求にいいこともあれば、悪いこともある。そんな自身の中にある承認欲求と語り合った結果をあなたに伝えたい。

承認の亡者

私自身は、承認欲求の塊と言ってもいい。とにかく人から認めてもらいたい。

 

認めてもらえたら嬉しくなるし、逆に認められなかったら落ち込む。あぁ、私はダメなやつなんだ……とかなり落ち込む。

 

このブログ見てても、承認欲求が爆発してる。まぁ自分でもわかってるわけだよ。

 

私は毎朝、妻もいない状況で子供たちに朝食を作り!

 

ゴミを出して花に水をやり!!

 

うさぎ小屋の掃除をして台所片付けて!

 

子供たちを笑顔で送迎して!

 

土日も子供たちと遊んで!!

 

365日料理も作ってる!!

 

子供たちと血も繋がっていないのに!

 

……認めて欲しいという心の声が聞こえてくるね。認めてもらわないと生きていけない人なのがわかる。

 

ブログを読んでる人たちにも認めてほしいし、家族や義母に認めてほしい気持ちも強いし、友達にもそう。親戚にもそう。仕事でも上司に認めてほしかった。

 

一度や二度認められるだけでは飽き足らず、継続的にひたすら認められ続けなければならない。常に飢餓状態なのである。

 

そして認められてないと気づいた時には、傷つき、酷く落ち込む。

 

確かに承認欲求が原動力にはなってきたけれど、何かおかしいなと思わざるをえない。

他者の評価に左右される人生の危うさ

他人の評価で自分の価値を決めるってのは、よくよく考えてみるととても危うい。

 

10人いたら、自分のことを嫌いな人が1人はいるという。万人から評価されることが、そもそもありえない。

 

何をやっても評価してくれない人はいるし、今回評価してくれた人も次回は評価してくれなくなることもある。

 

こんな曖昧でコントロールできないことに自分の価値を見出すなんてどうなんだろう。

 

例えば世界中に想いを届けたいと歌手になったが、生涯一人もファンができなかった。その場合、この人生に価値はなかったってことになるのか?

 

一生懸命歌ったことも、努力したことも、人を笑顔にしたいと作った曲も意味がなかったと死んでいくのか?

 

例えば、仕事も家族サービスもすっごい努力して幸せな人生を過ごして、もうすぐ寿命で死ぬって時に誘拐されたとするじゃないか。(唐突だが)

 

そして拷問されながら罵詈雑言を浴びせられるとしよう。

 

誘拐犯から「お前なんか価値がない」「生きてる意味がない」「誰も助けにこない」と何度も罵声を浴びせられたとしよう。

 

果たして、それでこの私という存在の価値はなくなってしまうのだろうか?

 

一人の人間や複数の人間、はたまた大多数の声によって、自分の価値が乱高下する。これって、いつまで経っても幸せになれなくないか?

 

死ぬ間際に、長年連れ添った愛する奥さんに「実はあんたが嫌いだった、早く死んで欲しかった!」って言われたらどうすんだ。

 

そりゃショックだろうけど、それまで自分なりに頑張ってきたはずだろ。出会って別れてきた人がいて、世界にさまざまな影響を与えてきた一人の人間だろ。

 

どれだけ他人に貢献し世界に貢献しようと努力したとしても、他人から評価されないことはある。白い目で見られ、辱められ、価値を貶められることはある。

 

そんな他人の評価に、果たして自分の価値を委ねていいものなのだろうか。

 

自分の価値とは、他人の評価程度で揺るがない確固たるものなのではないか。

 

そう思ったわけです。

自分の価値は自分で決めよう

お前何書いてんだと思われるかもしれないが、怖くないですか?

 

のほほーんと幸せに生きてきたのに、他人の評価でがらっと世界が変わっちゃう怖さ。誰からも認められなかったら自分の価値がないとする怖さ。

 

何が怖いって、自分の価値が常に変わる危険性があることだよ。

 

今日は上がって明日は下がる。90歳まではすごい価値が高かったのに、91歳になったら価値が下がる。株取引やってんじゃないんだっての。

 

これはちょっとなぁ。誇れる人生を送りたいのに、他人の評価でその成否を決められたら私が困る。

 

そして考えに考え抜いた結果、アドラー心理学の共同体感覚にいきつく。

 

端的に言えば、

 

私はここに存在しているだけで世界に貢献している。ゆえに価値がある。

 

という感覚。宗教臭は否めないが、でもこれがもっともわかりやすく、何があっても揺るがない考え方ではないか。

 

嫌われる勇気に載ってた一節(うろ覚え)を紹介しておこうか。

 

普段は何も感じないかもしれないが、もし家族が事故にあった時、その人が生きてるだけで本当に心から嬉しく思う。

 

つまり、何もできなくても、何もなくとも、その人はただ生きているだけであなたの役に立っている。

 

この感覚よね。

 

その考え方から一歩進んで、つまりは私はこの世界の一部なわけだ。

 

今まで出会った人々、別れた人々、訪れた場所、自然や地球や宇宙も過去も未来も含めて、さまざまな影響を受けて私はここに立っている。

 

そのすべてがあるから今の私があり、その影響を受けた私は世界の一部であり、世界に貢献している。それはつまり存在価値があるってことなんだと思う。

 

……よくわからん??

 

この世界のすべてが私を構成する一部なんだから、私に価値がないわけないじゃん!ってこと。

 

宇宙と共に生きる私に価値がないというなら、それはつまり宇宙には価値がないってことだから。宇宙の価値を揺るがすのはなかなか難しいと思うね。

 

あと宇宙の価値が揺らいでも、地球の価値もあるから。未来と過去も含めた包括的な存在が私だから。

 

リスクヘッジが素晴らしい。拷問でも絶対に揺るがない鉄壁の守備としか言いようがない。これが共同体感覚か!!

 

……w

 

単純に、子育てしてる人の中には認識している人も多いはず。生きてるだけでいいよって。そういう意識を自分に向けるという話。

 

この考えが絶対的な正解とは思ってないけれども、とりあえずしばらくこの考えで進んでみたい。自分の価値くらい自分で決めたいし。

 

ちなみに、私に揺るぎない価値があるってことは、これを読んでいるあなたにも当然揺るぎない価値があるわけです。

 

同じ時を過ごせることを嬉しく思っております。

 

明日はクリスマスイブだってのに、わけのわからん記事を書いたな。ではでは。

 

ここまで読んでいただき感謝。

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