親になったとんぼである、ごきげんよう。
なんとなく最近気づいたことをつらつらと記す。今までも思考の延長でもある。
親とは自分を捨てることである
だいぶ前に書いた記事。
この頃は、家族や子供たちのために自分をさらに犠牲にして時間を使うことにものすごい抵抗があった。
今でも十分に時間を使っているのに、さらに時間を使わないといけないのか?ふざけんじゃねぇ。
そう思っていたけれど、諦めた。私自身の目標を達成するためには完全なる遠回りであるが、本当に大事なものは家族である。
家族が笑ってなきゃ何を成し得ても意味がないのだから仕方がない。もっと家族に時間を使っていこうと決意した。
ここで、自分の一部を捨てた。
さらに数ヶ月後、人生において何が大事なのかを考え、不要なものに使える時間がないと気づいた。
いまだに捨てきれていないものはあるものの、何もかも手に入れることはできない。本当に大切なものを守るために使える時間は有限なのだ。
だから今まで何となく時間を使っていたものも捨てようと決意した。
ここでも自分を一部捨てている。
過去のことはよく覚えていないが、今までもこんな風に自分を捨ててきた。もちろん納得済みで、自分の責任で自分を捨ててきている。
昨日でちょうど結婚して6年が経過した今、また捨てた方が良さそうなものを見つけたのである。
私の感情は
生まれた時からずっと大事にしてきたもの。それは自分自身である。
大事にされたい、認めてほしい、話を聞いてほしい。承認欲求といえばそれまでだが、人に自分の感情を伝えることは私にとって重要だった。
ポジティブなことはもちろん、ネガティブな感情も伝えずにはいられなかった。口には出さずとも無言になったり、顔に出したり、冷ややかな態度を取って私をアピールする。
それが最近思うんだ。
私のネガティブな感情を伝えるのって、誰のためなんだろう?
本当にこれは必要なことなのだろうか。
もちろん考えを話すことは重要だ。意見もすれば悩みも話す。
心を開かないのではなく、自分の本当の感情を話して認めてもらう必要がないんじゃないか?ってことだ。
我慢ともちょっと違う。なんだろう。私の負の感情を誰かに認めてもらうよりも大事なことがありそうなんだ。
負の感情を表に出して、家族が気を遣ったり顔色を伺ったりなぐさめたりして、満たされるのは私だけ。
これいる??いらんよね。
一つ、先日友人が「子供たちの前では素直に感情を出した方がいい」と言っていたのが少し引っかかる。
今の見解としては、素直な感情にも良し悪しがあるということ。家族の前で見せることでプラスになる感情もあれば、逆もある。
自分が救われるためだけに感情を吐き出しているのなら、それは捨てた方がいいのではないか。
もちろんネガティブな感情はそう簡単には消えない。でも見せないことは選べる。
誰かが自分の本音を見つけて慰めてくれなくとも、自分自身は見つけることができる。これも過去に書いたやつ、自分で自分を慰める技術の話。
家族としての幸せを考えた時、私の負の感情を表に出すのはマイナスだ。自分を満たすためだけに感情を表に出していたので、今後やめることにする。
要はネガティブことは言わないし態度にも出さないようにするって話だ。
……うーむ、苦しそうな生き方だね。
だからこそセルフコンパッション的な技術が必要か。私のメンタルを家族にケアさせたくない。
それが私の幸せである。
自分は捨てたとしても
家族に怒らないとかイライラしないとか当たり前の話じゃねーか!!と思われるかもしれないが、そんなに単純な話ではない。
ネガティブな感情を処理するのは難しいものだし、それを表に出さないのも非常に難しい。我慢に我慢を重ねれば爆発する。
そして最大の問題は、"我慢している私"という存在が家族を不幸にしかねないこと。
わかりやすく言うと、例えば我慢してる私を見て妻はこう思うだろう。
「あ、とんぼがまた感情を我慢してフタしてる。かわいそう。私が話を聞いてあげなきゃとんぼが救われない」
みたいな。こう思われたら失敗である。
家族が幸せなら別に死んでもいいと思ってる私だが、私が本当に死んでしまうと家族が幸せにならない。
つまり家族の幸せの中には、私の心身の健康が含まれているというトラップ。なんてこった。
放っておいてくれて全然構わないのに、なんて面倒臭いんだ。家族の幸せのために尽力するのなら、自分の命も人生も感情も大事にしなければならないのである。
これを家族の幸せを願うパラドックスと名づけたい。
まあ私も大事にされているということでありがたい話ではあるのだが……脱線したね。
簡単にまとめると、これまではネガティブな感情を表に出すのはやめたほうがいいと漠然と思っていた。ただ、そもそも必要がないことと認識する。
感情を出す必要はないが、それだけだと私が潰れてしまう。だから自分のことは自分でケアする。
誰も見てくれなくても構わない。私だけが見ていればそれでいい。私が観測できるのなら、干渉し制御することが可能なのだから。(きゅうべえ論)
つまり私の負の感情を誰かに見てもらう必要がない。ただそれだけのことだった。
ちなみに自分よりも優先する存在があると意識したことで、今後の仕事への取り組み方や生き方などもかなり方向転換を強いられている。
育児ブログに書くことじゃないので割愛するが、自分を優先してた今までとはまったく違う将来が待っていることだろう。
いいのか悪いのか今はわからないけれど、死ぬ時に苦笑いしてそうだから多分OKだ。
ではでは。
ここまで読んでいただき感謝。
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