愛を考えるとんぼである、ごきげんよう。
赤ちゃんが産まれて自然に溢れてくる愛情を感じ、色々と気づくことがある。先日、妻への愚痴を書いたね。
この記事を見た妻が普通に怒ってた。出産頑張ってきたのにって。
私だけがすごくつらいんだよ!!という自己中心的なブログを書いちゃったので反省しつつ、愛情を考える。
愛とはなんぞや
最近は家族の幸せを考えることが増えた。自分を捨ててでも家族が幸せであればいいと考えるようになってる。
そんな中で赤ちゃんが産まれて、心の奥底から愛情が自然に溢れるのを今まさに体験してる。赤ちゃんってのはここまで心を照らし暖めるのかと驚愕してる。
端的に言えば、幸福感が強い。私の赤ちゃんがこの世界に存在する事実だけで強い喜びが溢れてくる。何もできなくても何者でなくてもいい。存在自体に感謝してる。
が、これは理性で作り出した愛情ではない。
赤ちゃんはベビースキーマとやらで、誰が見てもかわいいと認識する顔のつくりをしてるという。そもそも愛されなかったら生きていけないか弱い存在の生存戦略だ。
めっちゃ世話も大変なのに、親に自然な愛情が溢れなかったら人類はとっくに滅亡してる。つまり私が感じている愛情は、人類が繁殖するためのシステムみたいなもん。
本能的なものであり、言わば三大欲求に近い。
そう考えると、あまりこの愛情に重きをおくのはどうなんだろうなと思ったりもする。
赤ちゃんに自然に溢れてくる愛情も確かに大事にしたい。が、赤ちゃんは大きくなり、いずれこの愛情も自然に薄れていくだろう。
いや、愛情はあってなくなるわけじゃないけれど、影を潜めていく。
成長して言うことを聞かなくなり、反論し、私の価値観とは正反対の人生を歩むかもしれない。むかつくだろうし怒鳴り散らしたくなる時もくる。
そうなった時に、自然に愛情は溢れてこない可能性が高い。しかしそれでも自分から愛情を示していこうと思えるなら、システムに捉われない理性的な愛情と言えるのではないか。
まーでも自分の子供だから、本能的な愛情も理性的な愛情もあるんだ。二つの愛情を目一杯与えて、自立をサポートしていくのが一般的な育児になるんだろう。
私の場合、娘と息子には本能的な愛情を持ち合わせていなかった。それでも理性的に愛情を何とか示そうとして四苦八苦してきたものの、後押しするものがないから難易度が高い。
見知らぬ子供にドバドバと本能的な愛情が溢れてくることはなくてね。そもそも子供が好きじゃない可能性もあるんだ。
ベビースキーマも意外と馬鹿にできんな。
ヒントになる赤ちゃんへの愛情
さて、赤ちゃんへの強い愛情に疑問を感じながらも、ある種のヒントを得た。
上でも書いた通り、赤ちゃんが存在してるだけで素直に嬉しいのだ。
おそらく何もできない汚れなき赤ちゃんだからこそ、わかりやすいくらいに存在に感謝できてる。本当に、生きててくれるだけで最高に嬉しい。
本当に嬉しい。こんなにありがたいことはない。もうもうもう、これ以上ないってくらいに嬉しい。
ただこれが赤ちゃんだけで得られる感情かと言えば、おそらくそうじゃない(女性の場合はわからんが)。
なんと、赤ちゃんが誕生する以前にも同じような心境になったことがあるのだ。
それは結婚直前、過去のすべての黒歴史を妻に話した時。自分なんか死んだらいいのにとずっと思っていた私が、一時的ではあるが完全に自分を受け入れた。
あの時の私は、私自身が存在していることに強く感謝し、喜びを感じていた。つまり今の赤ちゃんに感じているものを自分自身に感じていた。
数週間、心から光が溢れて止まらなかった経験である。世界はこんなに美しいのかと思ったよ。宗教ではないぞ。努力の賜物。
そんな馬鹿なと思うでしょう?ところがどっこい、自分を愛せた時の喜びというのはとんでもないパワーを秘めている。赤ちゃん誕生と同等なのだ。
まぁその後、普通の日々に飲まれて自分への感謝は薄れていって、あれから2度と感じることはない。嫌いではないけれど、存在レベルで認めていない。
んで二つの共通点をずばり、存在レベルで感謝できる存在がいるかどうかだ。
行為のレベルではなく、存在してるだけでありがたいと心の底から思える存在。
……と考えると、赤ちゃんがいなくとも同じような喜びは得られる。例え周りに誰もいなくとも、自分の存在に心から感謝すればいいのだ。
さらに配偶者を受け入れ、子供たちを受け入れ……と周りの人たちも存在レベルで受け入れて感謝をしていけば、より強い幸福感に包まれて暮らせるのではないか??
この溢れんばかりの幸福感は再現性がありそうだ。
もちろん赤ちゃんへのものとまったく同じではないかもしれないが、幸福度として計測すれば赤ちゃん誕生を凌駕する幸福に包まれるかもしれん。
そしてここまで書いてわかるのは、私の未熟さだ。
今現在、娘にも息子にも、そして妻にももちろん私自身にも、存在レベルで感謝していない。行為のレベルで判断し、行為に合わせて評価をしている。
常に愛情を増減させ、無条件に感謝し愛することをしていない。
そう気づくことができた。赤ちゃんって面白い。
赤ちゃんは楽だけど
こんなクソ記事書いて誰も読まないとは思うんだけど、個人的には非常に興味深い話である。
赤ちゃんに感謝するのはある意味で楽だ。あらゆる条件が赤ちゃんを存在レベルで受け入れられるようにうまく作られている。
問題は、妻や子供たちにも同じレベルまで持っていけるか。もちろん、赤ちゃんが大きくなれば同じ問題に突き当たるだろう。
……おそらく、今の私では無理だろうな。
自分自身を存在レベルで認められていないやつが、他者を存在レベルで認められるわけがない。血のつながりなんて関係がない。だって自分自身が無理なんだ。
あ、赤ちゃんは例外ね。赤ちゃんへの溢れる感謝は期限付きのボーナスタイムであり、チートだ。赤ちゃんにはできても他は無理だ。
でも、赤ちゃんが産まれたことで完全に理解した。というか体験中だ。
今後は赤ちゃんと同じように自分自身を愛し、家族を愛し、果ては世界の人々や宇宙に感謝を向けていけばいいわけだな。
はいはいわかったよ。赤ちゃんよありがとう、すごいな君は。産まれてきた瞬間から最高に勉強になっているぞ。
君への溢れる愛情は原始のシステムではあるが、この感情がたとえ消え去ったとしても生涯に渡って理性的に愛するつもりだから安心していいぞ。
変わりたいけど変わりたくない
といった思考になって、久しぶりにアドラーの本を数冊読み返してきた。
面白い発見がいっぱいあったので、最後に今後どうするかを書いて終わりにする。
今までの私は、家族への貢献を第一に考えてきた。それなのにどこかに不満がある。私はここまでやっているのに!!という不満がとても強い。
妻への不満、息子への警戒心、娘にお世話してやってる感、家族のために無理して家事やってます感。
これらすべてが同じ答えを示している。
私は、家族を敵だと思っている。
敵はちょっと言葉が強いが、少なからず信頼できる存在だとは思っていない。認めてもいない。
味方であれば、妻に不満など感じず、息子にも傷付けられやしないかと怯えることもなく、娘のサポートに愚痴を言うこともない。家事を喜んでやるだろう。
そうなってないということは、まぁそういうことやね。
んで、周りを味方だと信頼するためには、やっぱりまずは自分を受け入れないといかん。
自分を完全に受容できてないくせに家族を信頼しようとか無理な話。順番が違う。こんなん続けても「自己犠牲で頑張ってる私かわいそう」という感情しか出てこない。
何をやっても変わらないと家族を疑い続けて疲弊するだけだ。
というわけで色々遠回りしたけれど、結局は自分を存在レベルで愛する覚悟をすることから始めましょうという結論で終わり。
勇気が足らんな。
めんどくさいなぁ、やりたくないなぁとすごく思うんだけど、私は変わりたくて変わりたくて仕方がないのだ。楽じゃないけど楽しい人生を過ごしたいのである。
おわり。
ここまで読んでいただき感謝。
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