ステップファザーにできること

発達障害の娘とやんちゃ息子の父によるステップファミリーの話

結局は自分のことしか考えておらず誰も愛せていない話

愛を語るシリーズのとんぼである、ごきげんよう。

 

赤ちゃんが産まれて本能的な愛情をビシビシと毎日感じているので、理性的な愛について考えるにはちょうどいい機会である。

 

何度も読んできたアドラー本であるが、様々な経験と思考を経て改めて読むとまた違う発見があって面白い。スルメみたいな本だね。

 

突き詰めてみたら、家族のために動きながらも私は誰も愛せていないようなのだ。

 

◆家族の紹介

家族を愛せているのか問題

こんなブログを書いているくらいだから、関心ごとは主に子供たち。どうすれば幸せな子供時代を送れるのか、どうすれば自立していけるのか。

 

突然出てきた義理の親父が子供たちの足を引っ張るわけにはいかんのだ。

 

子供たちの幸せは私にとって人生最大の課題であり、この奮闘こそが子供たちへの理性的な愛情ではないのかと思ったりもする。

 

さて、ここで一つの疑問が浮かび上がる。子供たちと同じように妻を愛そうとしているのか?

 

子供たちに全力で共感し何があろうともサポートしていこうと思っているけれど、その前に妻はどうなんだろう?

 

配偶者だから、パートナーだから、同じ親だから。

 

隣にいる存在だからと軽視してるんじゃないか?

 

いやね、共感もするし話も聞くし妻のためにやれることをやってるつもりではあるんだけども、妻のためというよりは子供のためなのだ。

 

妻が元気になりストレスフリーの愛情溢れるママになれば、子供たちも何も心配することなく勇気を持って歩みを進め、自立に近づく。

 

すべては子供たちのため。

 

……うーん。書きながら違和感がすごい。

 

子供たちのためなどと書いてはいるが、すべては私のためではないか。

 

妻が元気で子供たちもふわふわーと幸せにしてくれたら、こんなに楽なことはない。私は何もしなくていいのだ。妻が頑張ってくれたら私の存在なんて毒にも薬にもならん。

 

妻が元気でないと困る。子供たちも自立してくれないと困る。家族が幸せに過ごしてくれないと困る。

 

困る困るってなぁ。私のせいで家族が不幸になったとしたら困るんだよね。深く傷ついてしまうじゃないか。私が。

 

はて、これは本当に愛情だろうか。結局自分のことしか考えていないではないか。

 

私は妻に機能としての母と大黒柱を求めているのであって、何の見返りもなく妻を愛せているとは言い難い。

 

妻だって私に機能としての父と家政婦を求めているだけという可能性がある。

 

まー我々夫婦に限らず、子を持つ夫婦にありがちではないかな。お互いに自分の役目をしっかりやってもらわないと普通に困るし。

 

パートナーが自らの役割を放棄しても愛したいと思えるか、自らに問うてみると答えが出るような出ないような。

何から始めるべきか

家族のためと言いながら結局自分のことしか考えてないわけだから、それなりの対応策を考える必要がある。

 

まずは、子供たちを愛する前に妻を愛するのが先だ。

 

親は先に死ぬし、きょうだいも子供たちも自立し離れていく。しかし妻だけは死ぬまで一緒だ、唯一無二の存在である。

 

そういう人がいた方が人生面白そうだと決意し、自ら選んで結婚したのが妻なのだ、

 

そんな妻を軽視し、尊敬せず、信頼しないのはまったくもってナンセンス。妻を愛することができなければ、子供たちを愛することなどできやしない。

 

妻から始めるべきで、妻と一緒に幸せになる道を探るのが筋だ。でなければ結婚した意味がないし、生涯を通して愛していきたい。

 

といった結論に至ったのだが、面倒なことに妻を愛するにはまず自分を愛せなければいけないようなのだ。

 

なぜなら自分の価値が日々の生活で揺らいでしまっているから。

 

見返りを求めず妻に愛情を示していっても、裏切られることはある。悲しい思いもすれば寂しい思いもするし、自分が無価値だと感じることもあるかもしれない。

 

自らに確固たる価値を感じていなければ、誰かに愛を与え続けるのは難しい。傷つき愛を欲してる人が、見返りを求めずに人を愛せないでしょう?

 

できるかもしれないが、現実的ではないよね。苦しくなってうつ病まっしぐらだ。

 

ということで、まずは自分を愛し、次に妻を愛し、そこから子供たちに繋げていくのがもっとも確実な攻略ルートではないかな。

 

自己受容・他者信頼・他者貢献。アドラー心理学的にもそう間違っちゃいないのでは。

これからどうするの

自分を愛するって言ったってどうすりゃいいの?って思うよね、私も思います。

 

実際のところそう単純な話ではないのだ。日常という普通の日々の中で、自分には価値がないと無意識が攻撃してくる。

 

娘に叩かれて価値を感じられるか?息子から馬鹿にされて価値を信じられるか?掃除ができなくて妻をイライラさせてる私に価値があるのか?働いていない男に価値があるのか?

 

自分には価値があると何度となく信じてみても、あらゆる日常の思考が自分の価値を貶めていく。自分でも自分の価値が信じられなくなっていく。

 

誰かの言動や行動程度では揺るがない強い心と体が必要なのだろう。自らを愛し続けられる土台があってこそ誰かを愛せる。

 

そういう意味では認知行動療法は有効だと思われる。自分の価値を貶める自動思考を改善するのは必須。自分で自分を攻撃しないことが大前提。

 

根強いスキーマの解決も急務か。上っ面の自動思考だけ修正しても根本的に解決したとは言えない。

 

また疲れや体調不良は正常な思考を妨げる恐れがある。睡眠や運動、栄養管理なども徹底すべきだろう。

 

もちろん基本的なストレス対策はすべて役に立つ。メンタルの不調は思考を歪ませ、行動を先延ばしにさせ、自己否定に走り、悪循環のループに陥る。

 

思えばバスケやルービックキューブ、またFPの勉強といったスキルを高めることも手助けとなりそう。自らの成長を感じることはもちろん、周りの人に貢献できる力は価値を感じやすい。

 

精神面からのアプローチだけじゃなく、行動面から補助輪つけてやるのが良さげ。怠惰な生活を続けながら自分の価値を信じるのは難易度高い。

 

色々考えてみると、今までやってきたストレス対策や家族をサポートする行動指針は大きく間違ってなかった。

 

すべてはここに繋がっていたのだ。ただ見据えるゴールが違っただけで。

 

これからは私を愛するために行動しよう。私を愛せるならば妻を愛せるし、妻を愛せたならば子供たちも愛せる。

 

家族を大事にしたい思いに嘘はないのだから、急がば回れってやつだね。

 

正直めちゃくちゃ面倒な話だよ。今のところ家族は元気だし私の心身もそこそこで赤ちゃんもかわいいし、必要に迫られている感はない。

 

現状維持でものらりくらりとやっていけるはずだ。

 

でもせっかくの人生だから、「意外と面白かったな」と笑って死ねる人生を過ごしたい。頑張ってみよう。

 

おわり

 

ここまで読んでいただき感謝。

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