書くことがないとんぼである、ごきげんよう。
書くことがないというか、ニーチェ本を読んだせいで頭がぐるぐる回ってしまった。かと言って育児ブログにニーチェのこと書いてどうすんだという気もして。
でも面白いエッセンスだけ抜き出せば書いてもいいのでは?ということで無限に繰り返す人生を考えてみよう。
人生が無限に繰り返されるなら
今朝読んだこちらの本、ニーチェの入門本。興味深すぎて一気に読了した。
完全なるニワカなのでニーチェの思想を偉そうに紹介はしないし多分に解釈間違いがあるかもしれないが、一つ思考実験として面白い仮定があったのでそれだけ書きたい。
もしこの人生が無限に繰り返されているとしたらどのように生きる?
もしもだよ、もしもの話。
一応書籍では、宇宙は拡散し収縮する説からその可能性を示唆してる。
宇宙はビッグバンで瞬く間に広がり、いずれ収縮して無に戻る。そんでまたビッグバンによって拡散して新しい宇宙ができて、また消えて……
もしこれらが無限に繰り返されるとすれば、無限の中には今のあなたとまったく同じ、周りの人も物も地球も宇宙も何もかもまったく同じ世界が存在する可能性があると。
なんせ無限に続くわけだから、いつかはまったく同じ世界になる可能性は0ではない。つまり今過ごしているこの人生は無限の中で何度も繰り返した人生かもしれない。
これを永劫回帰と言うらしい。(私の理解では)
まあね、そんなわけないじゃんレベルの眉唾の話だ。ただ万が一のケースとして人生が繰り返されているとしようよ。
もちろん繰り返してることは知覚できない。今の人生が何回目なのか、何億回目なのかもわからないけれど無限に繰り返してるとする。
ではこの人生、あなたはどのような姿勢で生きる?
一生懸命に生きて、いずれ死んで。いつかはまた同じ生を受けて同じ人生を過ごすことになる。無限に繰り返している。
一度きりの人生だからこそ一生懸命に生きてるわけじゃないか。それが実は何度も繰り返していたとわかったら、その人生に価値があると思いますか?
無限に繰り返してきた世界で、今後もまた無限に繰り返す世界で、それでも前を向いて生きていくにはどうすればいいですか?
この答えを出そうとしたのがニーチェだそうですよ。面白いですね。
ニーチェの答え
何となくこの繰り返す世界という仮定を聞いて私が感じたのは、
あまりにもつまらない。
ということだった。何度も同じことを繰り返して何が面白いんじゃ、と単純に思った。ならば世界の理に干渉してでも変えていく方向はどうなんだと。
人は進化を遂げる生き物だ。常に進化しながらここまで命を繋いできた。いいことも悪いこともそうだ。将来的にサイボーグという進化ルートすらある。
宇宙が拡散・収縮を繰り返すとしても、長い年月をかければ宇宙すら人間の力でコントロールすることも可能ではないのか。
新しい宇宙を創造することだってできるかもしれない。
原始時代には神の力として畏怖していたこの地球でさえ人はコントロール下に起きつつある。本気になれば地球を破壊できるんじゃないか?まだ創造は無理だろうが。
だが果たしてそこまでして続くことに執着する意味があるのか?別に無理して続けなくても、永劫回帰だってある意味では循環して続いてる。しかも無限に。
などと考えつつ答えは出ず。
さて、書籍で書かれている答えとしては、
今を生きる
ということだった。うーむ。
無限に繰り返す意味のない人生であっても、何の意味もない世界であっても、自ら肯定していく。未来・過去に捉われることなく今を一生懸命に生きる。
無限に繰り返したとしても今に集中して生きていれば常に満足できる。そしてどこかの誰かが作った価値観に縛られることなく自らの価値観に沿って生きるのだ。
本当に幸せな人生を送れたのならば、無限に繰り返してもそれはずっと幸せなんだからよいよね。
……
といった感じだろうか。
ニーチェの思想を補足しとくと、そもそもニーチェの中には普遍的な生きる意味なんてないし死にも意味がない。何もかも本来意味がないという考えが根底にある。
しかし何の意味もないなら何もせんわwアホか!と無気力に生きるのではなく、何の意味もない世界だと認識した上で自分で意味を見出して生きていく。
そんな超人(ちょうじん)であれ。
……ニワカなりにまとめるとこんな感じかな。今朝読んだばかりなので間違ってたらごめんね。
永遠に続いてほしい時間
今を生きるなんて、自己啓発系でよく目にするベタベタな答えを提示してきたなと思いつつ。もしかしたらあれもこれもニーチェが源流なのかもしれない。
まあでもそういうもんかね??と首を傾げながらも、そういうもんだとして考えてみる。
自分が大切にしてる愛する人がいるったって、何度も何度も同じ人生過ごすのはどうなんだろうって。今に集中して生きて幸せを感じたからって、面白いかそれって。
……面白いか?
いやまぁ誰もが生きる意味を見出せないような面白くない世界観をあえて仮説として立ててるわけだから、絶望の中にでも意味を見出せるかという思考実験なのだろうが。
まー考えながらも現実は待ってくれないので今日も今日とて子供たちの相手をしまして、夕方には次男坊(1歳)を連れて公園に行ったりして。
最近は靴もはけるようになって、公園で楽しそうに芝生の上をとことこ歩く次男坊。暑いから日傘で直射日光が当たらないように後ろから追いかけて。
次男坊は楽しそうに笑ってて、私も自然と頬がゆるんで。
……確かに。
この時間なら永遠に続いてもいいかもしれない、と少し思う。
幸せというと安っぽい感じがするが、楽しそうに笑っている次男坊と過ごす時間は無限に続くのも悪くないと思えた。
過去も未来も無視すれば、魔法のような時間だったといえる。
多分そういう時間って誰しもあるんだと思う。
家族と過ごす時間、恋人と過ごす時間、好きなことに没頭してる時間、推し活してる時間、美味しいものを食べている時間、仕事終わりのビールを飲む時間。
この時間が永遠に続いてほしい。あぁ生きててよかった。この瞬間のために生きてきた……など表現としては色々あるが。
そういう一瞬一瞬を積み重ねて自分が本当に喜ぶ生き方を選び続けていくことで、永遠に繰り返す世界であっても心満たされながら生きられるのではないかと。
だからこそニーチェは社会が押し付けてくる勝手な常識やルールを強く批判してるのかもしれない。
他者が作った価値観で生きていると、なかなかね。押し付けられて嫌々やってることばかりの毎日では「永遠に続いてほしい」とは思えないはずだから。
結局、息苦しくて生きづらい原因はこれなんだろうさ。
ニーチェを感じるもの
そういえば私が人生の指針とするアドラー心理学からニーチェ臭がする。また進撃の巨人に出てくる進撃の巨人(エレン)。彼は彼で超人のように見える。
知らなかっただけで、後世の人たちに多大な影響を与えたのがニーチェさんなのでしょう。
さて。何の意味もない世界でどう生きるか、という哲学の面白い話。
今さらニーチェかい!と突っ込まれるかもしれないが、ここまで唸らせる思想は日常生活では間違いなく出会えない。10年前の私ではまったく理解できなかっただろう。
家族という概念すら社会が作り出したものと言われてムカッとしつつ、納得はした。
社会的な"家族"とは違う、自分なりの概念をあらためて考えたほうがいいなと感じるほどには納得してる。少し"家族"に囚われすぎてる気もするし。
うーん、面白いね。
ここまで読んでいただき感謝。
↓のウサギをポチすると、さらにとんぼが喜びます。