自然が好きなとんぼである、ごきげんよう。
外の空気、それも自然に囲まれた中で吸う空気はとんでもなく気持ちがいい。
さて、かなり前に流行した『千の風になって』と死生観の話。
世界は繋がり、循環する
『千の風になって』が流行した時、仏教界隈から批判があったとの噂をちらっと見た。
お墓にいないなんて何事じゃ!お墓を軽視するな!みたいな。
その有名なお墓の中にいないよ説は置いといて。
当時は何も感じなかったのに、時が経って変化した私の死生観は『千の風になって』の詩と近いものになっていた。
お墓云々で批判されたとは言うが、どこか仏教的ではないか?
世界と自分との境界線をなくすこと、世界と一体化することが悟りだと定義するならば、千の風になるとはつまり世界の一部になるってことじゃないか。
仏教感を抜きにしても、生き物が死ねば土に還り、その土壌から成長した木々が呼吸をして、それらが風になって空を舞う。
そよぐ風の中に、愛した者の存在を感じられるかもしれない。ただの思い込みとは言い切れないほどに世界は循環している。
そういう意味では、空気はきれいな方がいいかな。
大気汚染されて、土壌も汚れて、核廃棄物やらで何がなんだかわからない世界よりは、生き物を丸ごと包んでくれる自然が多い世界の方が心地よい風が吹く。
地球やその中に済む生き物たちができるだけ長く過ごせるように、気持ち良く循環できるように。
SDGs的な生活を心がけたいものだね。
ガスマスクが必須な世界になったら「千の風が」なんて言われても困るしさ。それ毒じゃないかってなるでしょう?
千の風になって
YouTubeにもあったので貼っておく。いい詩だ。
世界や自然が輝いて見える人がすごいなと以前は思っていた。過去に紹介した和平さんなんかがそう。
もし世界が循環してると心から理解できたならば、風だけでなく、鳥の声や降り注ぐ雨にも何かしらの希望を見出せると思う。
さて、なぜこんなことを書いてるのかといえば、うちのウサギが亡くなったからだ。
できるだけポエミーにならんように注意はしているが、なかなか重たい話だから難しい。しかしこの寂しさを忘れてしまう前に書かなければならない。
何度か身近な存在の死を経験してるために耐性がついてると思いきや、やはり直面するとどうしようもないなこれは。抗いようがないやつ。
あまりに寂しい。苦しいと言い換えてもいいかもしれない。
うさぎがいた部屋のドアが目に入るだけで胸が苦しくなる。部屋に入って突きつけられる現実に眩暈がする。
この寂しさしかない家で生きていけるのか私は。
愛する者がいなくなった世界は欠けた世界だ。二度と完璧に戻ることはなく何も面白くない世界。生きていく意味すらよくわからなくなる。
でも生きていかなければならない。私にはまだまだやり残したことがある。残る人生はたかだか数十年、面白くもない世界をどうにかして面白く生きていくのだ。
だからこの寂しさをどうしたものかと考えに考えた結果が『千の風になって』の詩と似ていた、というお話。
愛したうさぎは死に、世界の一部となった。つまり千の風になったのである。
ならばこの世界はとても愛おしいものではないかと、吹き抜ける風がこんなにも愛しく感じるものなのかと。
そしていつか私も世界の一部になって、大空を吹き渡る日を楽しみにしている。
寂しいね。
ここまで読んでいただき感謝。
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