宮崎駿監督の『君たちはどう生きるか』を視聴したとんぼである、ごきげんよう。
正直言って半分も理解できない難解な映画であった。あらゆるものが何かのメタファーであることは察せられるが、考えてもよくわからないものが多い。
言語化できない類のものもありそうだが、誰かの考察や解説は見ずに自分で考えることにする。
天才が最後の作品として作り上げた映画だ。宮崎駿という人間そのものが凝縮されていると考えて差し支えないだろう。
そんなんすぐに理解できるわけないんだから、生涯かけて少しずつ紐解いていきたい。
さて、映画は難しかったが得るものはあった。誰も興味がなさそうなことを大真面目に書くので避難されたし。
世界の見え方は千差万別である
私はあまりジブリ作品を好んで見たことがない。一応ある程度は通ってきてるものの、評判ほど面白いか?というのが本音であり。
一言で言えばわかりにくい。誰が見ても理解できるような単純なストーリーではなく、世界の境界線が曖昧だったり裏設定があったりして。
何も考えずに見ていた過去の私には興味が湧かないものだったんだろう。
だから今回は映画の隅々にまで何かしらの意図があることを前提として、宮崎駿監督の世界観を少しでも感じ取ろうと集中してみてみたわけだが。
それでもよくわからなかった。
しかし得るものはあった。
ネタバレは控えつつ書くと、あの世界観はザ・宮崎駿って感じすごくする。ポニョや千と千尋、トトロと似たような曖昧な現実世界というか(過去作あまり詳しくないけどね、雰囲気だけ)
そんでこの宮崎駿監督の描く世界というやつが、どう考えても私に見えてる世界と違うわけだよ。
いやそりゃアニメーションだしフィクションだし表現の仕方によってあらゆる世界が具現化されるのが作品ではあるけど、どうも別の世界が表現されている作品のようだ。
最近の私の学びから推察するに、宮崎駿監督には非常にユニークな世界の見え方、捉え方があって、作品以前にそもそもの現実世界の見え方も私と大きく違う可能性が高い。
見える世界は人によって千差万別だが、宮崎駿監督の見える世界は常識のそれとは大きく乖離した世界なんだろう。
私もその世界を見てみたいなぁ……む、いや、アニメで見せてもらってるのか。
しかしすでに完成された世界を表現してるとするならば、理解するのは難しいなとも思う。解説を聞いても理解できるかはわからん。
世界はいくらでも変容する
私の頭の中では完結してる話なのだが一応説明を加えると、見える世界が違う、というのは比喩でも何でもなくその通りの意味である。
感じる世界が違う、世界の解釈が違う、といった方が伝わりやすいかもしれない。
たとえば妖精を信じている人にとっては、落ち葉が風で動く音がコロポックルの足音に聞こえるかもしれない。
山から突風が吹けばドラゴンの息吹だと感じるかもしれないし、空が光れば雷様がお怒りで、海が荒れればポセイドンの降臨と表現することもできる。
実際、まだ神が信じられていたころの人間にとって神はより身近な存在だったと思われる。神を確かに感じていただろう。
神とは違うけど、今でもあるでしょう?
一人で暗闇の中トイレにいったら、後ろに何か貞子的な幽霊がいるんじゃないか?と思ったら怖くなるやつ。
いないはずだけど、いるって一度考えてしまったら本当にいるかのような恐怖を感じてしまう。
神様と同様に、幽霊も信じると決めたのなら見えて(感じて)しまうものなのだ。客観的に観測はできないが、その人の世界には存在してしまう。
そう考えると霊感が強い人、背後霊が見える人、オーラが見える人、というのも本当にいるんだろうね。
たとえば
幸が薄い
血色が悪い
性格きつそう
疲れてるな
といった私視点では無意識にキャッチする些細な情報が、人によっては守護霊が怒っている、呪われている、取り憑かれているなどと解釈したりする。
私にとっては直感でしかないが、その人の世界では霊的なものが解釈に加わる。
朝から寝坊したのは妖怪のせいなのねそうなのね、と結論づけることもできるんだ。
もちろん、その人が心の底からそういう世界だと解釈してるのならば、の話だ。
突飛な例え話が続いたが、人間についても性善説か性悪説をとるかで世界の見え方は変わる。魂の存在をどう捉えるか、理不尽に失われる命の存在意義をどう考えるか。
面白いのは、別に事実(常識)だと思われていることを信じなくてもいいということだ。
地球が丸いことが常識であっても、ここは亀の上の世界だと信じ続けることはできる。
一度宇宙に飛び立って宇宙から地球を見たとしても、それでも亀の上だと信じ続けることもできる。
一般的に言われている事実を知った上でも何を信じるかは自分で決められる。その取捨選択によって人それぞれの世界が構築されている。
その独自性や奥深さが宮崎駿作品の特徴なのかもしれない。
自分でもまとまらないけど、私と宮崎駿監督の見える世界は全然違うよね、と言いたいだけである。
そら天才と私の見える世界が同じわけないんだけど、自分の経験からこの結論に辿り着いたことが面白いなと思って。
世界の見え方、捉え方はその人の深みである
巨人の肩の上に立つ、という言葉をご存知だろうか。先人が築き上げてきた知識を駆使して偉業を成し遂げたニュートンが使った言葉として有名なやつ。
これに近いやつで、読書の量で見える世界が変わるというやつもある。有名な画像を引っ張ってきた。
わかりやすいね、積み上げてきた本の数でまったく世界の見え方が違うのだ。何も一番左が不幸だというわけではない。何が幸せかは人による。
なんだけど、私が言いたいのは……そうだなぁ。
本を積み上げていっても、宮崎駿監督が見ている世界が見えるようになるかは微妙だなと思って。
積み上げる本の高さによって世界の見え方が変わるのは確かにそうなんだけど、高さとは別にどう世界を捉えるかという別の視点があるように思う。
同じ本を読んでも、同じ経験をしても、それをどう捉えるかは人それぞれだ。まったく同じ本を読んできたのに見える世界がまったく違うことは十分に考えられる。
これって結局、自分自身の好き嫌いの話だと思うんだ。
この考えは好き、この考えは嫌い。言い換えれば、この考えは納得できて、この考えは納得できない。生まれ持った性格やそれまでの経験にも大きく左右されるだろう。
信じようと思えば幽霊が当たり前のように飛び交う世界にもできるし、守護霊を身にまとうこともできる。人間を悪魔だと解釈すれば地球は地獄へと変わる。
学ぶことはもちろん重要だが、そこから何を信じていくのか。
社会常識に凝り固まった頭でいまさら魂だ守護霊だと信じることは非常に難しいんだけどね。別に信じる理由もないではあるし。
あ、演技とかどうだろう。
技術によって別人になりきることで、一時的に別の世界を垣間見られるかもしれない。
精神を病むリスクもありそうだし、なぜそんなことをするのかもよくわからんけど。他人の世界を覗くアイデアとして。もしかしたら落語でもいいかもしれない。
……
とにかく、世界は変幻自在ってことで、この世界が面白いなと久しぶりに感じたのでこれを書いている。
もしかしたら明日の私の世界には妖怪や神様が存在してるかもしれないわけだ。もしそれらを心から信じられる材料があったなら世界はガラッと姿を変えるだろう。
そう考えると、社会が作った一般的な常識フィルタを通した世界はあまりに窮屈でつまらないといえる。
無難で遊びがなさすぎる。知識でがっちり世界が固定されてしまって広がりがない。
逆に宮崎駿監督のように常識外の視点があると、人として深みが出るのだろう。この人が見てる世界を知りたいじゃないか。
だから私も私だけに見える世界をもっと自由に広げていきたい。その方が面白そうじゃないか?
ここまで書いて自分では完全に納得してるが、同じように納得できる人は少ないはずだ。それがつまり見えてる世界(見たい世界)が違うってことの証明でもある。
何が正解とかはないので、どうぞよしなに。
ここまで読んでいただき感謝。
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