最近はジブリ映画を見てるとんぼである、ごきげんよう。
宮崎駿監督、高畑勲監督にシンパシーを感じてる。誰が何を言ってんだと思われるかもしれないが勝手に思う分にはいいでしょう?
さて、ジブリ映画の特典で出てきたある映画を紹介しつつ最後の子育てを考える。
認知症とその施設を描く映画『しわ』
スペイン発の認知症を描いた長編アニメ映画『しわ』をご存知だろうか。
家族が面倒見られなくなって老人ホームに入居させた認知症のお父さん。
当の本人はまだ意識がはっきりしてる部分も多いから気に入らないし、入居した老人ホームはまるで別世界の様相で困惑することばかり。
そこで出会う人々は、まだ自我を保っている人もいれば、すでにほとんど反応がなくなっている人、同じ言葉をひたすら繰り返す人、空想の中で生きる人。
家族はほとんど来ない。やりたいこともできない。ここがどこか自分が誰かも、いつかわからなくなるかもしれない。
恐怖と不安の中で、しかも閉じられた世界でどう生きていくか。書くだけで涙が出てくるな。
予告動画見た方が早いかも。
とても重たいテーマで、切なくて悲しくて温かい話。
『しわ』を制作した監督がジブリ大好きだったらしく、自らジブリに売り込んで日本で公開されたという経緯があるそうな。
高畑監督も認めているというから、ジブリ映画が好きなら見てもいいかも。
あとは自分の親が高齢だったり、またいずれ高齢者になる自分のためにも一度は見ておいた方がいいと思う。
予告を見てびびっときたら、レンタルでもなんでもいいからぜひ手に取って見てほしい。
死とはまた違う死
ここからネタバレは抑えつつ感じたことを書いていく。
認知症の症状が進むと、死とはまた違う別の死に向かっていく。肉体的には生きているのに、もはや自分が自分でなくなってしまう。
じゃあ認知症が始まったらもう自分じゃないのか?といえばそうではない。確かに自我を取り戻す時間があるからだ。思考できている時間がある。
では自我を失う時間がだんだんと増えてきたらどうだ。一日に10分しか意識がはっきりしないとしたら、それはもう死んでると言えるか?
いやいや、確かにそこにも私はいるはずだ。
じゃあほとんど思考もできないような状態になったら、それはもう死んでると言えるのか?
それもどうだろう。もしかしたらとても強く記憶に残っている言葉によって、何かしら反応するかもしれない。その反応は私だからこそ出てくるものだ。
実際に介護職として働いていた私も、常にベッドに寝たきりで胃ろうのおばあちゃんを何人か見てる。話しかけてもまったく反応はない。体は固くなっている。
それでも何か夢を見たのか笑うこともあったり、極々微かながらリアクションもあったりして。私は確かにこのおばあちゃんの存在を感じていた。
死んでいるなんてとてもいえない。生きていたよあのばあちゃんは。でも本人からすれば苦しみの中に生き続けている可能性もある。それは誰にもわからない。
結局、死は人それぞれの価値観によるものだと思う。
心臓が動かなくなれば、脳が活動を停止すれば、自我がなくなれば。どこからが死なのかは、元気なうちに自分で決めた方がいい。
現実として、その思想が延命措置や胃ろうといった判断に大きく関わってくるから。
生きる意味も違う
死が人によって違うように、生きる意味も人によって違う。何のために生きているのか、生きて一体何をしたいのか。
人によっては、認知症になって何もわからなくなっても生きる意味があるとする人もいるだろう。
たとえば認知症の人間と接する家族やヘルパーに少なからず影響を与える。そこにいる、というだけで人は世界に影響を与えて、与えられて生きている。
周りへの負担は大きいかもしれないが、そこからしか学べないものがある。
逆に、考える自分こそが自分であり、考えられなくなったら死んだのと同じとする人もいるはずだ。
その場合、認知症はまさに死である。いや、普通の死より苦しいかもしれない。だんだんと自分が死んでいく様を認識するのだから。
しかし世の中には、認知症を発症しながらも自分の状況や思考を執筆して世界に広める活動をしてる人もいる。
認知症になったからと言ってすぐさま死ぬわけではない。
最後まで何かできることはあるはずで、それを上手く拾い上げられる環境があるならあるいは幸せな生を送ることも可能かもしれない。
とにかく、生きていること、死んでいること。この二つの定義が人によって大きく違う以上、今の私は安楽死肯定派である。
生きること、死ぬことの意味は本人が決めることだから。
タイミングを逃せばもはや死ぬことすらできなくなる。死についても本人の意思をできるだけ尊重したい気持ちが強いか。
私の最後の仕事
そんな認知症の人目線を想像して書いてみたのだが、私はどうだろう?と考える。認知症になっても生きていたいか?
恐怖はある。思考ができない自分は自分じゃないという考えもある。ただ生きている限り他者に影響を与えるのならば、泥臭く生きることにも意味があるのかなとも思う。
ただそうだね、この映画でも少しテーマとしてあるっぽいのだが、やはり子供たちのことを考えてしまうか。
子供たちには子供たちの人生があって、親の介護で手一杯になったら自分の人生が壊れてしまうではないか。
ちょっとしたサポート程度ならまだしも、朝昼晩の食事介助と排泄介助だけでも厳しい。さらに徘徊や異食、転んで骨折するといったリスクが高ければ常に見守ることになる。
そしてそれは現実的に難しいために老人ホームに入れるしかない。
問題は、その選択が子供たちにとって100%気持ちのいいものではない可能性である。
本当は隣にいてサポートしたい気持ちがあるかもしれない。少しくらいならケアしてやってもいいと思ってくれてるかもしれない。
現状の負担が重すぎるから老人ホームにいれるしかないんであって、もっとお互いに気持ちのいい選択肢があったかもしれない。
せめて自宅で生活を続けさせてやることができたんじゃないか?
と、子供に罪悪感が芽生えることもあるんじゃなかろうか。親子の関係にもよるが。
だって普通に考えて、やっぱしんどいじゃないか。
親だって高齢になって長年住んだ家を離れたくはない。子供の世話にもなりたくないが他人の世話にもなりたくない。見知らぬ人しかいない場所に放り込まれたくもない。
よく知らない施設に引っ越して、周りは自分より認知症が進んでいる人も多くて、ほとんど会話もなかったり行動も制限されて。
老人ホームでも生きていく意味を見つけることはできるはずだ。ただそれは誰にでもできることではない。
もちろん少しずつ現代の老人ホームの状況も改善されてきてるはずだし、幸せに暮らせるように全力を尽くしてるホームもあるはずだからそこは否定しない。
ただね、親が楽しそうにもっと自由に伸び伸びと暮らしてくれてるなら、子供も引け目なく毎日を過ごせるじゃないか。
親に悪いことしたなぁと心の隅で感じながら生きてほしくはないじゃないか。
ということでこの問題の解決策としては、親は死ぬまで健康であり続けるしかない。
何もかも、とはいかないまでも、自分のことは自分でできる。はっきりとした自我を持ち続け、やりたいことはやってやりたくないことはやらず、笑って楽しく毎日生きる。
子供がたまに実家に顔を出せば健康で笑って楽しそうにしてる親がいる。そんな顔を見た子供は安心して、親にご飯を食べさせてくれと甘えてしまうような。
そんで最後は寿命であっさりぽっくり死んで、最後まで親は元気で笑って大往生で死んでいったよ!と子供が清々しく言ってくれたら。
こんなに嬉しいことはない。
いくら歳を重ねたとしても、子供たちの人生に影を落としたくはない。だからこそ自ら老人ホームに入る親もいるんだろう。
気持ちはよくわかる。絶対に迷惑かけたくないもんね。
幸運なことに私はこういった映画でも学べるし、老人ホームで働く経験もできた。高齢になるまでまだ多少の時間が残っている。
今後はこれまで以上に健康には気を遣って、自分の体力にあった運動をして頭もつかって死ぬまで仕事して、健康寿命=寿命を目標に生きていきたい。
これこそが子供に与えられる最後の愛情であり、親による最後の育児とする。
ここまで読んでいただき感謝。
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