右腕が痛いとんぼである、ごきげんよう。
最近は保育園帰りの次男坊が疲れてるもんで、30分ほど抱っこしながら音楽を聴いて歌をうたってる。そして右腕がちぎれそうな痛みに襲われてる。重たい。
さて、自分自身の言葉を出す重要性にびびびっときた話。文字を書く機会が多い時代だから、きっとあなたの役にも立つと思う。
人間味こそが人を動かす
こんな弱小ブログでも、続けているとたまにどこぞの企業からメッセージが届く。うちの商品を紹介してくれ、体験してくれ、契約一つにつき◯◯円だ。
どれもこれも「なぜ私が紹介せにゃならんのじゃ」と感じるものばかり。しかもそのメッセージが使い回しのコピペ。
私を選んで送ってきたわけではないのが明らかだ。だから全部無視してる。いや、丁寧に対応してる人の方が珍しいと思う。
それが先日、そういう企業系メッセージ系の中に人間味を感じるものがありまして。
メールの大部分はよく見るようなビジネスメールなのに、その中のたった数行にメールを書いてるその人を感じられたのである。
あぁ、この人はうちのブログを読んだ上で、私を選んでメッセージをくれたんだなと直感した。(実際はどうかわからないが)
たった数行の人間味に興味を惹かれたのでその企業のことを調べてみたら、それはそれは面白い経営理念で。
こういう会社で働く人だからこそ、メールの中にも人間味を出したのかなと。
というわけで、こんなブログでいいならと紹介記事を近々書くことを了承した(無償で)。私のブログに大した影響力はないから別に勿体ぶることでもないし。
ただこういうやり取りに至ったのは、それもこれも最初のメッセージに人間味を感じたことが始まりである。
この気づきはちょっと面白いなと思いまして。
うわべだけの言葉
なんとちょうどオーディブックで聴いていたこちらの本で、ドンピシャの話も出てきた。
ビジネスメールのやり取りではよくある言い回しを使いがち。
確かにそれも重要だが、ビジネスメールでもその人自身の言葉を出していくべきだというのだ。情熱というか心というか、それが人を動かすよと。
あー、確かに、と深く納得しまして。
私もたまに形式的な文章を書く機会がある。この言葉であってるのかな?この言い回しで失礼じゃないかな?といったことを気にしてググってる。
そうやって出来上がった文章はビジネスマナーがきっちり守られた立派な社会人の文章となる。これこそが大人の文章だと思い込んでいた。
ただどうだろう。これで果たして人の心に届くだろうか。
あまりに定型文丸出しではそもそも読む気がしない。どこかで見たことのある文章は目にも入らない。
重要な情報だけ摘めばそれで終わり。立派に並べられている言葉は、本当にそう思ってるかも疑わしいうわべだけの形式的な言葉でしかない。
いや、実際に何も考えていないことが多いだろう。マナーを守ることだけを目的とした形骸化した言葉なのである。
昨日書いた子供たちの作文の話にも通ずるものがあるかな。
どこかで見たことのある定型作文なんて読んでられない。独自の意見がなければ心が動くことはない。
たとえ拙い文章であっても、その人自身の言葉だと感じられるから響くのだ。
まさかこの感覚がビジネスメールにも通ずるなんて、しかも私自身が数行の人間味に動かされるなんて。
あまりにマナーに執着せず、私も自分の内から湧き出る言葉を書けるようにしていきたいな。無難な言葉を並べても誰にも刺さらないことがよくわかった。
もちろんビジネスマナーを全否定はしない。そういう文化も必要だし、相手を不快にさせないために最低限の気配りともいえる。
あっても読まないけど、なかったら「ん?」となる。それがマナーか。マナー講師が嫌われてるっぽいのも興味深いが。
自分自身の言葉で
そういえば以前にコメント欄で相談を受けたことがある。
深刻な話だったので真剣に考えて考えて出来上がった返信は、とても常識的で誰が見ても納得するものであった。
どこに出しても恥ずかしくない立派な大人の回答である。
それを送ろうかとも思ったのだが……結局は全部消して書き直すことにした。
これ、私の言葉じゃないなと思いまして。
わざわざ私を選んで相談してきたということは、私の言葉を聞きたいはずなのだ。他の誰からでも出てくるような、耳障りがいいだけの言葉を求めてはいないはずなのだ。
そう思い直して、一般論とは違う私だからこその回答を送って……最初の返信よりは有益だったと思いたいが。まあ私にできるのはそれくらいである。
せっかくこういうブログを書いてるんだから、もっとこう自分の言葉を表に出す意識を持ってもいいかもしれないね。
そんないくつかの出来事と読書が繋がった話。
もちろん炎上には気を配りつつね。
知識よりも感性を
完全なる余談として、最近は知識を増やすことよりも感性を大事にする方が自分を喜ばせる生き方かもかもしれないと感じている。
少し前は研究だエビデンスだと科学信奉者だったが、感性に従って自分なりの論理を信じる方が……何というか息苦しくない。世界が明るく見える。
まあだからと言ってスピリチュアルに傾倒するのはどうなんだという意識は根強いし、芸術家になりたいわけでもない。
ただ事実を探求する研究家というよりは、事実をどう解釈するかの思想家的生き方が性に合っているかな、とふと思っただけの自分語りで〆。
エビデンスましましの本も好きだけどね。
ここまで読んでいただき感謝。
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