人と話すと頭を使って疲れるとんぼである、ごきげんよう。
相手の感情の機微を察知しながら喋ってしまうというか、無意識にそうなってしまうようで本当に疲れる。一人の時間がたくさん欲しい。
だからあんまり長男と喋るのも乗り気じゃなかったのだが。これはちょっと考え直した方がいいなと思いまして。
温かく迎えてくれて
夜の子供部屋には、妻と長男(小5)+次男坊(1歳)の三人が寝ている。
中でも長男だけは塾や部活で帰りが遅い時も多い。長男が帰る前に、私は娘を連れて寝室に引っこんでることも多くて顔も見ない夜もあったりして。
一応、娘を寝かしつけた後に子供部屋に顔を出すようにはしているが、疲れている時はあまり近づきたくはない。挨拶することすら億劫なこともある。
ただ少し思ったのは……顔を出すと歓迎されるんだよね。
「パパがきた!」
そう言って妻と一緒に喜んでくれることが多い。これはこれで逆にしんどいぞと思って早々に部屋を後にしようとすると、
「まだ行かないで!」
「話したいことがある!」
と長男に止められて、仕方がないなと苦笑いしながらその場に座って少し話をして……というパターンが多いかな。
私はね、あまりに自分が歓迎されることに慣れていない。いいよいいよ私に注目しなくていいよ好きに話しててくれと思ってる。
だから乗り気じゃないオーラを全開にして部屋に入っていく。
これをよく考えてみたら、めちゃくちゃありがたいことじゃないか?
私が顔を出したことを喜んでくれる人がこの世にどれほどいるというのか。素直に心から来てくれて嬉しいと表明してくれている。
それに対して「やれやれ」「まったくしょうがないな」みたいな、ラノベの主人公かっての。
もう少し私も素直に受け取っていったほうが良さそう、相手には少なからずネガティブなリアクションに見えているだろうし。
何よりこうやって慕ってくれる関係は当たり前じゃないよなと。子供から嫌われている親だっているわけで。
感謝すべきだと今さら気づく。
真面目に聞いてくれる
また昨日書いたブログで気づいたのだが、そういえば長男は私の話を真面目に聞いてくれる非常にいいやつである。
多分、妻よりも真面目に聞いてくれている。よっぽど長い無駄話じゃなければ、一言一句を聞き漏らさない勢いで聞いてくれている。
昨晩も話の流れでデカルトの話になった。『我思う故に我あり』という考えの面白みを伝えたくてね。
それに長男も当たり前のようについてきて、ゴッホからニーチェの話になって。
私が落合陽一氏の父の真似をして、
「ニーチェを読んでないやつとは話しない!!」
とわざとらしく連呼してたら、長男もゲラゲラ笑ってた。
最後に真面目な話(?)に付き合ってくれてありがとうと言っておいた。私にはそういう存在がいなかったから、長男と話せて楽しいよと。
ありがたいよほんと。
思慮深い父親でありたい
今読んでいる小説、『君たちはどう生きるか』に叔父さんが出てきまして。
父親がいない主人公のコペル君に、人生とは何たるかを思慮深く丁寧に教えてくれる。
社会とは何か、仕事とは何か、貧乏とは何か、立派な人間とは何か。
私もこういう叔父さんが欲しかった……と思うのと同時に、長男にとって私がこういう叔父さんのような人でありたいとも思った。
長男は今塾で学習してて、様々な知識を得てきている。世界のこと、日本のこと、社会のことを学んでいる最中だ。
でも知識だけでは見えないものがあるのだ。ただ漠然と勉強しているだけではなかなか気づけない考え方や世界の見方がある。
だから私はね、叔父さんのような話はできないかもしれないけれど、私なりに長男に色んな世界の見方を伝えていきたい。
常識のことも、非常識なことも、面白いことも面白くないことも、そして怖いことも。
様々な話をしていくことで、私も様々な気づきをえられることだろう。長男に教えてるようで、実は教えられてることも多い。
そう考えると、もう少し前のめりに寝室に顔を出してもいいかもと思えるね。
こうやって思春期に入っても崩れない信頼関係を築いていきたい。
ここまで読んでいただき感謝。
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