今日は何もしないとんぼである、ごきげんよう。
疲労感がとんでもないので休みにしようと決めたものの特にやりたいこともない。精神的に疲れすぎると何もかもが面白くなく感じてしまう。
とりあえずブログだけは書かないといけないので、最近思ったことを簡単に。
親を頼ること
以前、親に甘えられない話を書いた。
ハグしたり手を握ったりといった、体が触れ合うコミュニケーション自体が気持ち悪く感じてしまってね。その原点は何なんだろうと紐解いた。
その答えとして、"親に甘えてはいけない"思考があったという話。
さて、最近長男が友達に嫌われている話を聞いて色々と考えさせられているのだが、10歳の頃の私ならここまで親に話さなかったはずだ。
特に誰かに嫌われているなんて話は絶対にしなかったと思う。
親に話しても仕方がないとか、自分で何とかしないといけないとか、社会で上手くやっていけないのは格好悪いとか情けないとかダサいとか。
親がまともに向き合ってくれることはないと思い込んでいたので、多分何を言われても悩みを打ち明けることはなかったと思われる。
何というか、親に甘えてはいけないは親を頼ってはいけないとも言い換えられるんだよ。頼っても無駄と言ってもいいかもしれない。
物理的に(送迎とか)親を頼ることはあっても、精神的に親を頼ることはない。甘えることと同じ。
甘えたいけど甘えてはいけない。そして助けてほしいけど、助けは求めてもいけない。
そんな考えがあったんじゃないかなぁ。
今でこそ親にもある程度の自己開示はする。それでもやはり本当に困っている話はしない。言っても仕方がないと思ってる。
解決の目処がたっているなら重たい話もするけどね。
手を繋ぐこと
何だか長文展開になりそうな雰囲気になってしまった。いや、言いたいことは結構単純だ。
歩き始めて数ヶ月経過した次男坊は、自宅の前で遊ばせていると道路に飛び出していったりする。
交通量がほとんどないとは言え、道路に出るなら手を繋いだほうがいい。しかし手を繋いだら座ってしまって動かなくなるのだ。とても嫌がる。
最初は戸惑ったものの、要は危険度が低ければOKなのであって手を繋ぐことは絶対条件ではない。だからいつでも抱っこできる距離で見守っている。
そんな次男坊でも、ちょっとした坂道や階段前に来るとこちらを向いて自ら手を差し出してくる。
1人では無理だから手を繋いでくれの合図だ。
……これか?と思いまして。
危ないから手を繋ぐという一見どうでも良さそうな行為なんだけど、その小さな行動の積み重ねによって親への信頼感を高めていくのではないか。
些細なSOSに何度も何度も応えてもらうことによって、助けを求めても嫌な顔せず助けてくれる存在として親を信頼してくれるのではないか。
という気づき。4人兄弟の末っ子だった私には、こういう経験が足りなかったのかもしれない。親が頼れる存在だという感覚は今でもない。
多分これは無意識レベルの話だから、一度子供から信頼できないと認定されたら覆すのはかなり厳しい気がする。
逆に言えば、胸中を語ってくれる長男とはある程度の信頼関係があるのかもしれない。
あとはまぁ、手を繋ぐことだけじゃないんだろう。日々の問いかけへの応答率とか、嫌がることを無理やりさせないとか。様々な場面が信頼関係に影響してる。
そういう意味では、日常的によくある小さく見えることほど影響が大きいのかもしれないね。
親になるって奥が深いわ。
ここまで読んでいただき感謝。
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