図書館へ行ってきたとんぼである、ごきげんよう。
だいぶ本を選ぶのが上手くなってきた。以前はなかなか手に取りたくなるような本が見つからなかったのに、今は借りられる上限の10冊があっという間に埋まってしまう。
分厚いの借りすぎると読めずに返しちゃうから、バランス大事だね。目で読む時間はあまりないんで。
さて、吹抜保の話。
家を保つこと
いくつかの詩に惹かれて、詩人である故・茨木のり子さんの書籍を手に取った。
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茨木のり子さんの代表作と言われる詩や対談が載っている本。ビビッとくる詩がいくつかあって、のり子さんの感性に惹かれている。かなり好きな人かもしれない。
さて、その中の一つを引用し紹介する。
吹抜保
心は ぽかん
秋の空
ぶらりぶらりの散歩みち
一軒の表札が目にとまった
吹抜保
ふきぬけたもつ か
ふきぬきたもつ か
吹抜家に男の子がうまれたとき
この家の両親は思ったんだ
吹抜という苗字はなんぼなんでも あんまりな
親代々の苗字ゆえしかたもないが
天まで即座に ふっとびそうではないか
この子の名には きっかりと
おもしをつけてやらずばなるまい
吹抜保 いい名前だ 緊張がある
庭には花も咲いていて
一家のあるじとなった保氏は
なんとか保っているようだ
年はわからないが
たもっちゃん
ながく ながく 保っておれ
茨木のり子 吹抜保より
これを見て色々思うことはあった。表札でここまで面白い詩を書くのか、名前だけでここまで深く考えてもいいのか、と。
そしで自分ごとに絡めてみると一つ気づいたことがあって。
あぁそうか、人は外から家を見て、そこに住む人々をイメージするのか。
そしてたもっちゃんは確かになんとか保っていると茨木さんは判断した様子。確かに。庭が荒れ放題では保ってるとは言えない。
たもっちゃんが地に足つけて保ってることは、別の見方をすればしっかり家族を守れていることの表れでもある。
そう考えるとうちの庭と花壇は荒れ放題だから、私はたもっちゃんにはなれてないんだなぁと。
もちろん家の外観だけがすべてではないのもわかってるけども、すごく腑に落ちて納得してしまった。
私は見た目を後回しにする派だ。家の中ならまだしも、常に生活する空間でない自宅の外観をあまり重要視していない。
重要度が高ければ当然やるけれども、庭なんて後回しでいいと思っている。別に余裕ができた来年とか再来年でもやりゃいいんじゃないかなって。
自分の見た目すらぐだぐだなのに。
しかし、外から我が家を見た時に保ててないと感じられるのは……よく考えると、ちとまずい気がしてきた。家族に悪影響がありそうだ。
長男の友人やその家族も我が家の前を通るだろう。その時に荒れ果てて手付かずの花壇を見てどう感じるんだろう。
娘のデイのスタッフさんは毎日玄関まで来てくれて、あの花壇を見てどう感じてるんだろう。
近所の人に至っては毎日我が家の前を通ってるはずだ。
家族が笑っていればいいじゃないか、そこが重要だろうとは思いつつも……やはり保ててない家と思われると、心境にマイナスのイメージを与える気がする。
それが家族に返ってくる可能性もあるし、そもそも外から帰ってきて荒れ果てた家に入るうちの家族はどういう気分なんだろう。
保ててないなぁ。たもっちゃんすごいよ。
少しずつ
本音を言えば、庭をいじる元気があればやっている。優先順位が低いだけでやらないわけではない。
子育てと家の中限定のたもっちゃんなだけ。家の中だけでダウンしてただけ。
ただ私の不調の原因を認識したので、もしこれで完全に体調問題をクリアすれば……もしかしたら庭を定期的にいじっても体調維持できるかもしれない。
ということで本日は一時間ほど庭いじりをした。昼食後のガーデニングなので血糖値上昇も食い止められて一石二鳥でもある。
まあ見た目が整ったところでわかりやすい目に見えた効果はないだろう。それでも父親というか、私自身が家族のためにやるべきことだろう。
なんせ今までは割とどうでもいいと思ってたからね、見た目なんて気にすんなって。
現実的な見方で言えば、ズボラな家と判断されれば泥棒に目をつけられる可能性も高まるかもしれない。
まあ綺麗になって別に悪いこっちゃないからね。体調を維持しながら庭も花壇も維持していくこととする。
ここまで読んでいただき感謝。
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