ステップファザーにできること

重度知的+発達障害の娘と、二人のやんちゃ息子の父によるステップファミリーの話

親離れ・子離れ・妻離れが少しずつ進んでる噺

今日もがっつり昼寝したとんぼである、ごきげんよう。

 

三日間昼寝しまくってかなり回復した。左腕の調子もいい。頭の中でぐるぐる回っていた戯言でも書いてみようかなという気にもなる。

 

というわけで久々の思想回。

 

◆家族の紹介

親離れ

あかね噺という漫画をご存じだろうか。週刊少年ジャンプで連載中の落語漫画で、今私がもっとも推している漫画。アクタージュに近いかな。

 

こういうの

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主人公のあかねは落語家だった父を尊敬しており、父に憧れを抱きその強さを追いかけながら落語の修行をしてる。

 

それが、自分で落語を始めて気づいてしまった。

 

「父は弱い人だった」

 

と。父を初めて一人の人間として正面から捉えて、その上でそんな父が好きだったことに気づく。

 

そんなあかねを見て師匠が一言。

 

「親離れできたか」

 

師匠さすがっす。

 

何が言いたいかと言うと、子供だからこそ無意識にかかってしまうフィルタってあるんだよ。親だからすごい、何でも知ってる、子供のことを思ってくれている……etc

 

親に理想を重ねると言ってもいいかもしれない。

 

でもほら、そんなことはないじゃないか。

 

自分で親になってみたらわかる。人間的にはまったく未成熟な段階なのに、突然親という肩書きを得ただけの普通の人間である。

 

子供のことを心から愛してるとか、子供のことを何よりも最優先にするとか、子供が困ってたら必ず助けるとか、そんなん幻想に過ぎないわけで。

 

ただそんな幻想に子供は振り回され、裏切られたとすら感じてしまう。むしろ親自身もそんな幻想に縛られていたりする。

 

何度も書くが、親も人間なのだ。

 

ここで書く理想の親というのは、すごくわかりやすーく親という概念を一般化した机上の空論でしかない。

 

理想の親など存在しない。そこにはただ一人の人間がいるだけである。

 

なのに「親なのに」「親のくせに」「親なんだから」といった理想論で親に対してネガティブな感情を抱くことは、親離れできていないことの証明とも言える。

 

つまりは親を一人の人間として見ることができていない。子供の立場から抜け出せていない。

 

……と思うんだけども、どうだろうね。

 

最近、やっと親離れできたなと感じることがあった。

 

先日次男坊(2歳)と実家に遊びにいこうかなと母に電話したら、普通に「こないでほしい」と断られまして。だけど何も感じなかった。疲れてるんだねと受け流せた。

 

5年前なら怒っていたはずである。

 

「わたしたちを無条件で受け入れないなんて!子供と孫だよ?ひどくない?」

 

とか。

 

あと孫である次男坊に会いたがっている、というのも一つの幻想だよね。孫だから会いたい?それもただの一般論であって、誰にでも当てはまることではない。

 

うちの母は孫と遊ぶよりYouTubeで政治ニュースを追ってる方が楽しいのである。

 

まあ、常にそうってわけじゃないし、孫と会いたい時もあるだろうけどさ。要は孫と遊びたくない時も普通にあるわけで、常に最優先ではない。

 

そういうことなんだろうさ、もちろん私もそうだしさ。

子供にも理想の姿がある

親離れで大体言いたいこと言っちゃったんだけど、この考えは子供にも適用できる。

 

少し前の私が長男(小6)に対してブログでこういうこと書いてた。

 

「○歳にもなってこんなことある?」

 

そう。本当によく一般的な同年齢の子たちと比較してた。普通なら、一般的には、大体この年齢の子は〜とか。

 

それも結局、一般的な(理想的な)子供というフィルタがかかっていて、長男本人を見ることができていなかった。

 

周りの子と比較するのではなく、一般的と言われる接し方に囚われるのでもなく、長男自身がどういう人間なのかを見ていなかったのである。

 

一応は少しずつそのフィルタも剥がれてきたのか、今は割とそのまま長男を見られている気がする。まだまだだけども。

 

ただ難しいのは、この世界は一般論だらけだということ。

 

長男を見ていった結果、わかりやすく書くとASDやらADHDに近い傾向が見えてくる。

 

そうか、長男はこういう傾向が強いのか、と感じると、次はASDやADHDで見られる一般的な症状(枠)に長男を当てはめそうになる。

 

それでは本末転倒というか、長男自身を見ていることにならない。そんなものは人間が作った枠組みでしかないわけで、まったく同じ人間は存在しない。

 

が、それを抜けても一般論地獄は続く。

 

恋愛の仕方、勉強の進み具合、青年期特有の行動、友人との付き合い方、社会との付き合い方、考え方、思想……etc

 

何もかもなんとなくの一般論が頭にこびりついている。結婚とかね、就職先なんかがわかりやすい好例かな。

 

どこまでいっても一般論がついてくる。その時々でちゃんと現実の子供と向き合えるかどうか……というのはとても難しい。

 

まあ少しずつやっていくしかないよね。子供は成長して変わっていくから、その都度親も一般論を手放していくしかない。

 

ほら、独立しても親のことを心配してくれるだろうとか、たまには電話をくれるだろうとか、親のことは絶対に忘れないだろうとか。

 

最終的に、子供から愛されることを手放すのが私にとっての子離れのゴールかな。

妻離れ

最後に、最近私はひっそりと妻離れをした。妻には言っていない。

 

もともと私は妻に結構な理想を抱いていたところがある。特に"母親"としての理想かな、子供たちを無条件で愛するみたいな。

 

確かにそういう部分もあるんだけど、決してそうではないところもある。

 

よく書いてるのは、妻が子供たちよりも掃除を優先すること。

 

私はほんとこれが理解できなくて、何で子供たちを優先にしないのかと。それが当然だし、母親ってのはそういうもんだろ?とずっとモヤモヤしてた。

 

なぜ母親が子供たちのそばにいないんだ!?

 

と。おそらく、娘+長男にとっては妻だけが実の母親ということも多分に影響してるだろう。継父の私に子供たちを任せて、実母が掃除してるのはおかしいだろって。

 

でもそれも、結局は私の中の理想論に囚われていただけだと知る。妻は別に理想の母親でもないし、そもそも理想の母親など存在しない。

 

妻は妻で、掃除を愛する一人の人間である。掃除をしないと気が済まず、掃除をしないとイライラしてしまう、掃除大好きな人なのである。

 

だからと言って子供たちが嫌いなわけではない。子供たちのことも考えてくれてるし、子供たちにも時間を使う。ただそれよりも掃除を優先したいだけ。

 

妻にはそういうところがあり、それこそが妻である。

 

……ということにようやく気づいて、最近は子供たちより掃除を優先する妻を見てもイライラしなくなった。

 

私が子供たちを優先ししすぎて家が汚れてると妻に怒られても、以前ほどイライラしない。こういう人だよね、とスルーできてる。

 

むしろ妻が掃除を優先するのはわかっているから、私が子供たちの対応してイライラしてる妻から離した方が有益な時間を過ごせるまである。

 

うむ、少しずつ妻離れできているんじゃなかろうか。

自分離れ

何となく書き始めたら止まらず最後まで書いてしまった。特に何か言いたいわけではないのだが。

 

おそらくこの先に、自分離れがあるんだと思う。

 

理想の30代~40代の生き方やら、理想の親、理想の父親、理想の男性、理想の仕事、理想の肩書き……etc

 

そんなものすべて何となくわかりやすく作られただけの概念に過ぎず、こんなもの満たす必要もなければすべて満たせる人間も存在しない。

 

かつ、満たしたところで幸せになるわけでもない。なぜなら自分が欲した姿ではなく、外部が欲した姿だからである。

 

手に入れたとしても、それを維持するのはとても苦しい生になることだろう。

 

しかもその外部というのもよくわからない。要は人間の脳にとって、正解を一般化した方がわかりやすくて楽だよねー程度のものだろう。

 

そこに泥臭い一人の人間は存在しない。

 

みんな同じで同じ正解に向かうみたいな。しょーもなくてあほくさい。みんな同じなら人間である必要もない。

 

おっと脱線した。

 

つまりは他人に理想を重ねないということは、自分にも理想を重ねる必要がないということで、多少は自己嫌悪や恥も軽減されるんじゃなかろうか。

 

なかなか難しいんだけどね。これ書いてる途中で起きてきた娘に顔面蹴られたんでおしまい。

 

ここまで読んでいただき感謝。

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