私はアドラー心理学が大好きだ。嫌われる勇気が大好きだ。
このブログでは子育てに絡めてアドラー心理学のことをよく書いている。
だがアドラー心理学は子育てだけじゃないのだ。
今回は盛大な自分語りをしよう。くだらないぞ。
私はいつも偉そうなことばかり書いているが、人目を異常に気にする人だ。
誰かに褒められるために行動したし、誰かに叱られないために行動した。
それはひきこもったのが原因ではない。思えば小学生、幼稚園のころから人に嫌われたくなかった。
小1の頃、いじわるな同級生がいた。人を笑いながら叩いていやがらせをしてくる同級生がいた。
私の対応はどうだったか。
ただヘラヘラしていた。
反撃をすることもなく「やめて」ということもなかった。
とにかく小1の頃には既にヘラヘラしていた。
小5になる頃。
家も近く仲が良かった友人が何かのきっかけで私に怒って喧嘩になった。
喧嘩になったといっても、相手が一方的に怒っただけだ。
床に押し付けられ、背中に乗られて首をしめられた。
その時の私はどうだったか?
ただ涙を浮かべながらヘラヘラしていた。
当時周りで見ていた同級生の言葉をよく覚えている。
「一人は怒っているのに一人は笑ってるよ、変だね」
中学になっても変わらない。
何か嫌なことをされても、理不尽な要求にも、私はヘラヘラしていた。
「やめて」「いやだ」そう訴えることは悪いことではないはずだ。当然の権利だ。
喧嘩なら私も相手に攻撃してよかったはずだ。
でも私はただヘラヘラしていた。
それはなぜか?
相手を傷つけたくない。
私は相手を傷つけたくないのだと、ずっとそう思っていた。
でもそうじゃなかった。
相手に嫌われることで自分が傷つきたくなかったのだ。
私は、誰かに嫌われてること、誰かに否定されることを異常なまでに避けようとしていた。
ただ全員にヘラヘラしているわけではない。
この人は私を傷つけないだろう。
この人は私を否定しないだろう。
そう思える相手には心を開いたが、高圧的な人や意地の悪い人間には露骨に態度が変わった。
それが私だ。
物心ついた時から、私はそんな人間だった。親や、優しい人にははっきり物を言っても、怒りそうな人や口が悪い人には決して逆らわない。
自分で書いててくそみたいな人間だなと思うが、それが私である。
それじゃつまらないだろ!と抵抗し始めたのがひきこもりから脱出した頃であるが、元々の人格はそうは変えられない。
抵抗はするが、やはり心は苦しい。誰かに嫌われると心が苦しい。誰かに迷惑だ、という顔をされるのが心底嫌で避けようとしてしまう。
二つほど、とてもくだらない例をあげよう。
仕事の休憩で同僚と同じ席に座り、話が盛り上がらないのが耐えられなかった。
”私が面白くない人間だと思われるのではないか?”
そんなことが頭によぎって、何とか面白い時間を提供しなければと思ってしまう。
また、よく怒って愚痴ばかり言っている人に面倒臭い仕事を振ることができなかった。
”こんな仕事持ってくんなよ、と迷惑がられるのではないか?”
そんなことが頭によぎって、自分で全てやってしまったりした。
それでも振らなきゃいけない時もある。そんな時に、物凄いストレスを感じてしまうのだ。
それもこれまでは応急処置をしてきた。
例えば休憩中に盛り上がらないことについては
”休憩中に話したくない人もいるし休みたい人もいる、相手も疲れているかもしれない。盛り上がらなくてもいいんだ”
そう思うことにした。
仕事を邪魔臭いと思われそうなことについては
”でもこの人はみんなに同じように反応をしている。私だけじゃないから気にするな”
こう考えることにした。
だがこの二つの考え方、何かおかしいと思わないだろうか?
別に休憩中の話題が盛り上がろうが盛り上がらなかろうが、どうでもいいのだ。それで何かが変わるわけではない。
そして仕事を振るのが必要なことなら、そもそも相手がどういう反応しようがどうでもいいのだ。それは必要なことなのだから。
私が気にしているのは、本当にどうでもいいことばかりだ。
相手に批判されることを恐れ、嫌われるのを恐れ、自分が否定されるのを恐れ。
本来やるべきことすら相手を選んで躊躇してしまう。やりたいことも、言いたいことも、そこに進もうとすると息苦しくなり大きな壁が現れる。
いつからこんな呪いがかかってしまったんだろうか?
頭ん中に針でも刺さっているのか?
わからない。わからないが、この思考の歪みは人生に関わる重要な問題だ。
この根本的な思考の歪みに気づいたのは今年になってからだ。
今はもう道を変えたが、少し前まで私はある勉強をしていた。
通信教育で、課題を書き上げたら提出し先生からの添削を待つというもの。
これは私の夢だからと意気込んでその通信教育に申し込んだ。
確かに内容は難しかった。
だが私が内容よりも引っかかっていたのは、先生の添削である。
自信たっぷりに課題を出せば、もしかしたら間違えているかもしれない。
間違った回答で私が否定されるかもしれない、失敗を多く指摘されて傷つくかもしれない。
それが嫌で嫌で課題を出したくなかった。
それでも決して安くない通信課題、嫌だからといって課題を出さないという選択肢はない。
何度も何度もしつこいくらいに最終チェックをして、それでも出したくなくて、なんとか出せたとしても返却がくるのが怖い。
返却が来たら来たで見るのも怖い。怖くて怖くて仕方がない。
実際に返ってきたものを見れば、大したことはない。成績もいい。先生も褒めてくれる。正直内容も文句ない。素晴らしい。
何のことはない。出来はいいのだ。私は優秀なのだ。
だが、20個近くあった課題の途中で私は諦めてしまった。
途中で課題を出すのが嫌すぎてやめてしまった。
その時に考えたのである。この私の思考の歪みを。
「自分のやりたいことよりも、他者からの評価を優先するのか?」
私がもっとも苛立ちを感じたことだ。
馬鹿らしいのだ。本当に馬鹿らしい。他人の評価や失敗を恐れ、自分が否定されるんじゃないかという恐怖で今この自分の時間を無駄にしていることが本当に馬鹿らしい。
他者からの視線だけを気にして私は生きていくのか?
他者からの視線だけを気にして私は死んでいくのか?
そんな人生はまっぴらごめんである。
それでも人と関わる時の怖さは変わらない。
何度も書くが、この呪いは物心ついた時にはもう私にかかっていた。
確かにチャレンジはする。嫌われてもいいと人に物申したり、会社に物申したりした。
だがそれは一時的なもので、結局その勇気はまた影に隠れてしまう。
こんな人生は嫌だが、怖いのも変わらない。どうしたらいい?
恐怖の中をそれでも何とか前進するにはどうしたらいい?
そうもがき苦しんでいた私を勇気づけてくれたのが、アドラー心理学を紹介する本、”嫌われる勇気”だった。
数年前から嫌われる勇気を読んではいたが、ふと”あぁ、あれはこのことを言っていたのか”と気づかされることが多い。
そして嫌われる勇気は、人間関係で無意識に心にまとわりつく恐怖から私を守ってくれた。
”何をしたって嫌われる可能性がある。なら自分の好きなようにした方がいいんじゃないか”
”嫌われて否定されても死にはしない。大事なのは「これからどうするか」”
”他人が私を嫌うかは私が決めることではない、考えるだけ無駄だ”
これらの思考は、人間関係に臆病になった私の心を魔法のように守ってくれる。
先日書いたが、最近新たな仕事をもらって自宅で本格的に仕事をすることになった。
自宅での仕事とはいえ、きっちり研修もあるし人との繋がりもある。人とコミュニケーションを取りながら進めなきゃいけないし、私がミスをすれば当然指摘される。評価もされるだろう。
ネット上とは言え会社となんら変わらない。
そんな空間に身をおいて、久々に思い出した。
間違える恐怖を。誰かに否定される恐怖を。嫌われる恐怖を。
だから今この記事を書いて、私がどんな考えだったかまとめているという感じではある。
正直言えば、アドラー的な考えをしたからといって何もかもが解決し輝く世界になるわけじゃない。呪いはそう簡単に外れてくれない。
上で書いた途中で辞めてしまった通信教育は、「間違うのが勉強だろ」という姿勢で再開し完走したが、結局最後まで心は重苦しいものだった。
そして最近始めた仕事でも、質問したりする時に無意識的な恐怖が私を襲ってくる。
娘や息子の学校の先生と話す時は”変なお父さんだと思われないだろうか”とビクビクすることもあるし、正直学生時代の友人に会えば私は隠れてしまう可能性すらある。
でも一つ言いたいのは、
そんな人生は嫌なのだ!!!
そう、私はそんな人生を送ることが心底嫌なのだ。まっぴらごめんなのだ。
私は私のやりたいことをして、やりたいことを楽しんで、人生を謳歌して死にたい。
そのためには、このくだらない思考の歪みが死ぬほど邪魔なのだ。
邪魔で邪魔で仕方がない。
この”嫌われたくない、自分の尊厳を傷つけたくない”という思いが無意識に私の行動を制限し、邪魔をする。
この私を押し込める思考を、どうにかしてぶちのめしてやろうかと考えていたこともあったのだ。
なぜ忘れてしまっていたのか?こんな大事なことを。
誰に嫌われても構わない。誰に否定されても構わない。
私は私が正しいと思う行動をとり、そしてその結果誰にどう思われても構わない。
私の未来は私が作る。サイコロの目は私が決める。運命すらも私が決める。
私は私の未来を一歩も譲らない!!
興奮しすぎて痛いやつになってきたところで今日は終わりにしよう。
熱意溢れる素晴らしい記事だ。私をなめんな!
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