ステップファザーにできること

発達障害の娘とやんちゃ息子の父によるステップファミリーの話

自分を認めることと子供を認めることの違いに気付いた話

先日、友人宅に遊びに行って色々と気付いたことがある。

 

深夜まで話し込み、私もなんとなく心に引っかかっていることを話してみたのだが、そこで指摘を受けたことだ。

 

私が私のことを認めていない。

 

薄々気付いていたが、はっきり指摘されて色々と思うところがあるのでそれを記していきたい。

なぜこんなに自信がないのか

まず先日の、

 

この記事では次女にアドバイスを送ったと書いた。

 

だが実際は記事の通りに堂々と話せたわけじゃない。私は助言を送りながらも

 

”私なんかが助言していいんだろうか”

 

そう心に引っかかり、助言を送っている間はとても緊張してしどろもどろだった気がするし、助言を送ったあとには「ごめんね、変なこと言って」と謝罪もした。

 

私は自分の意見が的を射ていることを確信しながらも、次女はそれを認めないだろうなと感じていた。

 

だが違った。私が助言をした数時間後に次女から電話があり「ありがとう、それでやってみるよ!」と悩んでいた次女が元気な声で教えてくれた。

 

実際翌日には私の助言を参考に仕事に集中したようで、上司も怖かったがなんとかうまくやれたと笑顔で教えてくれた。

 

私なんかが、と思っていた助言が次女の行動を変えたのである。

 

そんなことが、気づけば過去にもいくつかあった。

 

父が病気で倒れ、今夜が山だから延命治療をするかどうか家族会議してほしいと突然医者から通達があった時。

 

皆がどうするべきかと頭を抱えていた時に兄が私に言ったのだ。

 

「お前の意見がいいんじゃないか、こういうの、一番冷静に判断できそうだよ」

 

そう言われて、私のことをそう思っていたのか?と驚いた。

 

何て言ったかはよく覚えていないが、父の意思を最優先にすべきだと言った気がする。

 

また次女の旦那さんが心の病になったが病院に行きたがらず、それに引っ張られ次女も限界がきてどうしようもないという時に、母からなぜか私に助けを求める電話がきた。

 

なんで末っ子の私が?私の意見なんて聞いても意味ないだろ、そう思った。

 

だが一応は次女の話を聞きに行き、その話をまとめて紙に書き出し「これからどうするか」を明確にし、じゃあもうこの選択肢しかないんじゃない?と次の指針を伝えてみた。

 

すると次女はとても喜んでくれて、実際にそのように動き、旦那さんを説得して病院に連れていって今は回復に向かっている。

 

おそらく、私の意見が役に立ったのだ。

 

そうだ。そこで、”おそらく”という言葉出てくるのは、私が私を認めてないからに他ならない。

自分を認めたくない無意識

今回そんなことを友人たちと話してきて、気付く。

 

私は、私を絶対に認めないと決めている。

 

私がどれだけ努力しても、どれだけ肩書きが変わっても、家族の問題にどれだけ貢献したとしても、私が私を認めることは、ない。

 

なぜなら、私が認めないと決めているからだ。

 

だがよくよく考えてみたらどうだ。

 

新しい仕事をもらえて自宅で仕事もできるし、ブログも楽しく毎日書いている。

 

子供達もまあ病気はするが元気だし、妻も元気で家庭もそこそこに円満である。

 

実家の家族からだって信頼されているようだ。

 

数年前の私からすれば、虚言癖を疑うレベルで私は変わったのだ。

 

一体何が不満なのか、私が努力したからこその今ではないのか?

 

何をそんなに拒絶してるんだ?認めてもいいんじゃないか?

 

そう感じた時、ぽろぽろと涙が溢れ出した。

 

私は、頑張っているのだ。私は頑張って、変わろうと努力をし、前を向いて歩いているのだ。

 

私は私を誇り、認めていいのだ。

 

そうだ、これからは私は私を認めていこう!

 

 

 

と意気込んだのもつかの間、そこでまた気付いてしまった。

 

ん?以前にもこんなことあったな。

コールセンター時代の回想

それは5年ほど前、コールセンター同期のお姉さんと二人で夜のスタバの人生相談をしていた時だ。

 

「自分のことを好きにならないと変わらないよ」

 

そんな感じのことを言われた気がする。その時に、私は涙が出そうになったのだ。

 

私は私のことが認められなかった。心底嫌いだった。

 

だが、長い長いひきこもり生活から脱出して、地獄のコールセンターに入り、努力して頑張っていると。

 

そんな前に進もうとする私のことは好きになれるし、こんな奴がいたら友達になりたいと。

 

そう感じた瞬間に涙がぽろぽろこぼれだし、家に帰った私は風呂場で泣きじゃくった。

 

そうだ、これからは私は私を認めていこう!

 

 

 

 

 

え、これ全く同じ状況じゃん!

 

私は私のことを認めていたはずじゃなかったのか?

 

いつから私は私を否定するようになってしまったんだろうか。

 

おかしいな。

友人から得た面白い質問

そこで、今回友人からの話で一つ面白い質問があったのを思い出す。

 

もし思い通りにできない自分のことを攻めそうになったら

 

「自分の子供が同じ状況なら何て声をかけるか」

 

そう考えてみるといいらしいのだ。

 

もし私の息子が「僕はだめなやつで、あれもできてない、これもできていないんだ。だめなんだ」と言っていたら、私は何て言うだろうか。

 

簡単だ。

 

息子よ、今はできないかもしれないが、いずれできるようになる。それにできててもできていなくても、私は君のことが好きだよ。

 

こう言うのだ。

自分を認めることと子供を認めること

そこで自分を認めた時に自分にかけた言葉と、子供を認める時にかける言葉には決定的な違いがあることに気付く。

 

私は、私がやってきた行動を評価したからこそ私を認めている。

 

だが子供たちなら、何があろうと存在を認めようと努力するのだ。

 

もし失敗したり何かうまくいかないことが続けば、また私は私を拒絶するだろう。

 

実際に、数年たった私は気づかぬ内に私を拒絶していた。

 

きっと、それではまた同じことを繰り返す。

 

だが子供達にはどうだ。

 

何があろうと娘や息子を否定することはない。

 

何をしても何もしなくても、私は子供達を認める努力をする。

 

クソ野郎だろうが暴言をはこうが、存在するだけで嬉しいと思っているのだ。

 

だからきっと、自分を認めるというのもそういうことなのだろう。

 

私がいる、私がここにある、ただそれだけで嬉しいことじゃないか。

 

私が存在することを私が喜ばないで、一体誰が喜んでくれるんだ。

自分を認めるとはどういうことか

いいことも悪いことも全て含めて、私という唯一無二の存在を認めること。

 

それこそが、私に必要なことだったのだ。

 

うむ。

 

今まで責めまくって悪かったよ。ほんと。悪いことしたな。 

 

まあ自分の存在を認めようと努力したからといって、いきなり全てががらっと変わるわけではないはずだ。

 

だが少しずつ私の認識が変わって、あらゆる状況で自分へかける言葉が変わってきたならば。

 

私は今よりもう少し成長できるのではないか。

 

そんな日曜日の戯言であった。 

 

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