テンションが上がらない日はテンションが上がらない記事を書くに限る。
そこで、私の記憶がまだはっきりしている内に父を看取った話を書いていきたい。
末期がんになった父
父は2011年ごろに大腸がんのレベル4だと発覚、余命2~3年という宣告を受けた。
だがその後抗がん剤治療を受けて、3年を超えてそれなりに普通の生活を送ることができていた。
その間に何度か倒れたが、そのたびに持ち直し完全復活する不死鳥のような父。
抗がん剤治療の影響ではげていくが、少し抗がん剤を休めばすぐにふさふさになるという特技も持っていた。
本人にとっては笑い話ではなく、髪の毛が生えると父も喜んでいたのをよく覚えている。
長期入院となった日
そして最後に倒れたのが2016年11月末。
その日は父の様子がおかしかった。
少し熱があるという父に何度あるのか聞いてみたら、父は自身の脇腹を指さして「見たらわかるだろ!ほら、ここに書いてあるだろ!」と言ったのだ。
ん?どういうことだ?
脇腹を指しながら怒る父の冗談ではない雰囲気を察し、スルーすることにした。
そんなかみ合わない会話が何度かあって気になっていたのだが、その夜だ。
様子を見ようと父の部屋を訪れると、父は口から血を流し意識を失っていた。
これはやばいと救急車を呼び、父は救急搬送された。
そこからかな。もう長くないと、最期をどうするかという話になっていったのは。
全身に転移した腫瘍が神経を圧迫しているとかで、その時から父は下半身麻痺状態にもなっていた。
救急搬送されたあとに意識は戻り変わらず話もできた。
ただもう歩けないし、排尿や排便の感覚もない。ほぼ寝たきりという状態になった。
たまに記憶もなくなっているようだった。
入院生活のなかで
父がもう長くないということで、終末医療ケアチームの人たちも頻繁に病室を訪れるようになった。
今後どうしたいか、患者の最期をサポートするために家族や本人と相談するチームだそうだ。
ここで問題だったのは、我々家族は父本人に余命宣告をしていなかったこと。
大腸がんだと判明した時、家族会議を行った。子供たちである我々四人は、父にも余命を絶対に伝えるべきだと主張した。
だが母が渋った。父に事実を伝えるのが怖いのか、事実を知る父を不憫に思ったのかはわからないが、母の拒否は強かった。
「じゃああんたたちが言いなさい、私は言わないよ」
そう我々に丸投げされたりもした。でも結局、私たち子供が口を出すことはなかった。
他の兄弟は知らないが、私も怖かった。事実を父に伝えるのが怖かったし、もし私が勝手に余命を伝えて父が元気をなくしてしまうのも怖かった。
結局、我々家族は思考停止し、先延ばしにしただけである。
今考えてみれば、そうだな。
生涯共にいると決めた伴侶と、独立していく子供たちでは、同じ家族でも役割が違うと思う。
母が絶対に言わないと決めたのなら、子供たちが口を出す問題ではないんじゃないか。
妻も子供できた今は、そう思う。
私は余命宣告を受けるなら妻から聞きたい。妻が言わないと決めたなら、それでいい。
少し脱線したが、父は自分がもうすぐ亡くなるという事実を知らないというのは、最期の時をどうするか決める時にかなりの障害だった。
余命を知らない父ではあったが、家に帰りたがっていた。年末年始も病院で入院なのだ。面白いことなんて何一つない。
帰りたいが、下半身は感覚もなく排泄も全介助、歩けないという状態。
たまに高熱をだし、何度も誤嚥性肺炎になったり意識も失う。
誰がどう見ても、入院しておく以外に選択肢がないという状態だった。
家に帰りたいという父
でも、それでもだ。
体調がいい時の父に話を聞けば、帰れるなら帰りたいと言うのだ。
自宅に戻るのは不安も大きいが、病院は看護師もよく回ってきてうるさいし家がいいというのが父の本音だったのだ。
それならば!と終末医療ケアの担当に「父が家に帰りたいと言ってるので私は帰してやりたい」と、家族の一人の意見として話すことにした。
こんな時のために私は介護の仕事もしていたのである。
仕事があるので一日中は見られないが、排泄ケアもできる。
体位交換や痰吸引に食事介助、正直なんでもできるし知識もある。
私がいない間は母の負担にはなるが、私が介助を教えられるし自宅に帰っても問題ないはずだ。
自宅に帰せるなら、そしてそれが本人の意志なら、それを何とか叶えてやりたかった。
そう終末医療ケアの人と何度も話をした。
しかし実際は、父を自宅に帰したいと言っているのは私と次女だけ。母も長女も大反対だった。
「なんでわざわざお家に帰すの?先生もいるし病院から出る必要ないでしょ」
そう言っていた。わかる、わかるんだが、死ぬのだ。父はどこにいてももう死ぬ。
自宅には父も大好きだった病院に来られない犬も猫もいる。会わせてやりたいじゃないか。
最期なんだから、父の意志を汲んでやろうじゃないかと何度も説得した。
私の覚悟もこの時はまだまだ甘いものではあったが、余命宣告だってできていないのだ。
父は何もわからず病院で最期を過ごすのか?それだけは絶対に許せなかった。
ちなみに、病院の外科の担当医も自宅に帰すのは反対だった。
「なんでこの状態で帰るんですか?」
そう言われた。
終末医療ケアチームは患者の最期を考えるチームで、外科のチームとは考え方がまるで違う。
父をずっとみてきた外科チームは病院でできることがあるなら病院にいるのが当然だという立場で、終末医療ケアチームは本人たちの意思を最優先にしようという立場のようだ。
病院側も一枚岩ではないんだなーと勉強になった。
そんな中、終末医療ケアチームが色々と動いてくれて、自宅でヘルパーも利用できるような手続きをサポートしてくれたり。
病院にあるようなベッドのレンタルとか、もしもの時の痰吸引器とかのサポートもできると色々と我々に教えてくれた。
色々と話を聞いていく上で自宅でも介護できる環境があるならと、母も覚悟を決めてくれた。そして、じゃーみんなでお家に帰ろう!ということが決まったのである。
自宅に帰ることが決まってから
帰ることが決まったとしても、すぐに帰れるわけじゃない。
何度も高熱を出す父。
その度に退院は延期になり体調を崩す度にどんどんレベルも下がっていく。
そして何度目かの高熱を経て、今帰らなかったらもう二度と家には帰れないという時。
そんな最期のチャンスを逃さないように病院側も手配してくれて、急いで自宅に戻ることになった。
それが入院してからちょうど二ヶ月経った頃の話である。
ここから自宅に父がいたのは十日足らずであったが、まだまだ書くことがありそうなのでまた今度にしよう。
思い出せばまだ心は重く涙も出るが、父の最期から学んだことは多い。
こんな我々家族の話が、いつかきっと誰かの役に立つ時が来るはずだ。
記憶が鮮明なうちにネットの海に残しておきたい。
追記
父が自宅で最期を迎えた話。
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