ステップファザーにできること

発達障害の娘とやんちゃ息子の父になった話

愛する猫の命日。死とは何か、残された私は何を考えて生きるのか

長年暮らした動物、いわゆるペットが亡くなった時に、どう考えるだろうか。

 

悲しみにくれるだろうし、泣きじゃくることもあるだろう。 悲しいけども仕事だけは行かなきゃならないという人もいるかもしれない。

 

私も現実と理想の狭間で何度も悩まされてきた。

 

そして30数年生きてきて、何度も愛する存在を見送ってきた私の超個人的な考え、思想を少し書いてみたい。

人間と動物、何が違うのか

私は基本的に、人間も動物も、そこらにいる虫も何も変わらないと考えている。

 

無機物も有機物も同じで一体何が違うんだという思想の人なのだが、まあ現実的には虫が嫌いだったりするのはそういう文化に生まれた人間の限界さね。

 

というのもあって、私にとっては動物が死ぬことと人が死ぬことは同義。父が死んだ時と猫が死んだ時、比べるものでもないがどちらも悲しかった。

 

最近はペットロスという言葉も出てくるくらいでそういう人も増えてきているのだと感じるが、私も同じ。飼い犬や飼い猫が亡くなったらそれはそれは悲しいのだ。

 

長年一緒に暮らした犬や猫が死んでしまうことは、愛した存在がいなくなること。

 

悲いよね。だってもう会えないんだぜ。死んだらどうなるかなんて誰もわからんし、死んだら会えるなんて軽々しく言っちゃいけないとも思う。

 

死後の世界に希望を見出してしまったら、この現実はどうなるのだ。

 

残された者たちは自分の足で立ち、前を向かなきゃいけない。ぽっかり穴の空いたこの現実を生き抜かなければいけない。

 

先に死んでしまった者たちが残してくれたものがあるはずだ。それを無下にしてはいけないし、繋げていかなければならない。

 

それは人だろうが動物だろうが関係がない。残された私は、愛した存在が残してくれたものをこの先もずっと、歯をくいしばってでも繋いでいかなければならない。

 

それが、私の生きる理由の一つでもある。

死ぬ時にどう思うか

ここで、ペットがなくなった時に仕事を休むことの是非についても簡単に記しておきたい。私も外で働いていた当時はかなり悩まされたんでね。

 

この件で悩む人って、今の時代ならまだ山ほどいるはずだ。もう数十年したら休むのが当前の時代がくるとは思うのだが。

 

そして多分その答えは、休みたいなら休むこと。これだと思う。

 

それでも仕事の都合とか、クライアントがどうとか、人によっては「そりゃ休みたけどさ、それができないから困っている」という人もいるはずだ。

 

だから、そうだね。

 

「自分が死ぬ時に、その選択をどう感じるか」

 

そう自分に聞いてみるのがいい。家族として暮らした存在が亡くなって、今までそばにいた存在が消えてしまって。

 

それを弔うために何をするかは人それぞれであるが、最後の時を仕事や別のことで過ごせなかったとして、自分が死ぬ時に後悔しないのか。

 

私は、それが答えだと思っているよ。

忘れられない命日も増えた

さて、何で突然こんな記事を書いたかといえば、先日が愛する猫の命日だったからだ。

 

本当にかわいがって毎日のように遊んでいた。もう4年もたつね。

 

今でも高いところから降りた時の「トンッ」という音は鮮明に耳に残っているし、ネズミで遊びたいと鳴いていた声も思い出せる。

 

この猫だけじゃない。父も亡くなったし、16年一緒に住んでいた犬も、他にも亡くなった猫もいる。

 

まだ30代前半の若輩者の私ですら、生涯忘れらることのない命日が増えてきた。

 

また数十年時がすぎれば、頭に刻まれた命日ってもっと増えるのだろう。覚えている誕生日よりも増えるのかな。

 

悲しいねぇ。もう会えない存在が一つずつ増えていくのは、現実を直視すると頭がおかしくなりそうになる。

 

それでもさ、前を向いて生きていくしかない。目には見えなくても、残してくれたものがあるはずなのだ。

 

それを繋いでいくのが私が生きる理由である。何度も失敗して諦めたくなって死にたくなったとしても、絶対に立ち上がる。

 

だって、そうするしかないじゃん。もういないんだから。それ以外にできること思いつかない。

 

そんな、どうしようもない寂しさ綴る記事であった。

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