ステップファザーにできること

発達障害の娘とやんちゃ息子の父によるステップファミリーの話

「拒絶」と捉えていた娘の暴力を「心の叫び」と解釈してみる会

相変わらず娘の暴力に悩まされているとんぼである、ごきげんよう。

 

娘は重度の発達障害で8歳児。ここ数年、日常的に攻撃的な行動が多く見られている。

 

先日も朝から靴を履くように声をかけたら靴を投げつけられ、その翌日は持つように差し出したランドセルを全力で玄関に叩きつけやがった。

 

はっはっは。まぁ、現実はきついんだよ。いっそ、顔を引っ叩いた方が楽になると思えるくらいにね。

怒りは膨れ上がるばかり

娘の暴力的な行為を目にするのは、朝が多い。なぜかといえば、急いでいたり何か行動を促すことが多いからだ。よって、朝に娘の攻撃性は爆発する。

 

これって、すっごいイライラするんだよ。こっちは何も悪いことをしていないはずなのに、叩かれて、物を投げられる。

 

30年以上生きてきて数えるくらいしか経験できなかった凄まじい怒りを、ほぼ日常的に体験できる。ありがたすぎて涙が出る。

 

怒り対策として毎日寝る前に筆記開示を行っている。当然、娘に対する怒りを書くことも多いのだが、最近の内容を見るに怒りが完全に振り切れている。

 

ストレスレベルは10を超えてしまっていて、娘の暴力に殺意すら覚えている。

 

解消できなかった怒りはどんどん積み重なり、今では自分でも制御できないものにになりつつある。自らの筆記開示を読んで、素直にそう思う。

 

これでも色々やってんだよ。攻撃があった時にその場から逃げる、呼吸を落ち着ける、ストレスレベルをはかる、セブンコラムを書く。

 

怒りをガソリンにたとえてパワーに変えてみる、娘なりの理由があるんじゃないかと考えてみる。先日は20分間、娘がいてよかったことを書きまくるベネフィットファインディングも行った。

 

こんだけやっちゃいるけども、娘にカバンをわたしてそれを投げられて叩かれたら、一気に怒りが跳ね上がるのは何も変わらない。

 

穏やかじゃないことは承知しているが、もはやこの娘は虐待を受けても仕方がないんじゃないかとすら今の私は考えてしまっている。

 

2年以上積み重ねてきた暴力が、ここまできてしまった。攻撃的な時以外は、仲良くやってんだけどね、まいったね。

解釈を変えてみる

カウンセラーにでも行った方がいい段階だろと考え始めていたところ、たまたまオーディオブックで聞いた本にちょっとしたヒントがあった。この本。

 

人生に起こりうる様々な問題で傷ついた心を、自分で手当てする方法を教えてくれるもの。

 

本なんて読んでも何も変わらないと思うかもしれない。確かに役に立たない本もあるけども、実践してみると人生が変わったりするから侮れない。

 

今回この書籍で気づいたことがいくつかあるが、まず私は「拒絶」に対して過剰な反応をする節がある。

 

幼少期のトラウマか、学生時代のトラウマか知らないが、とにかく他者からの拒絶が怖い。いやだ。恐ろしい。逆に、拒絶に対して怒りが湧いたりもする。

 

そして大切なのは、娘からの暴力を拒絶だと捉えている事実だ。

 

毎日毎日、娘から暴力という形で拒絶されている。その度に心は傷つけられ、ずたぼろになり、もう元に戻らなくなってしまった。

 

私を拒絶するお前を絶対に許さない!

 

ふむ。拒絶に対する過剰反応は別途解決せねばならないのだが。ここで考えてみたい。

 

はたして、娘の暴力を拒絶と解釈するのは妥当か?

 

この本にはリフレーミングという言葉が出てくる。ビジネス系の本でよくみるワードなので知っている人もいるはず。以下、Wikipediaからの引用だ。

リフレーミング(reframing)とは、ある枠組み(フレーム)で捉えられている物事を枠組みをはずして、違う枠組みで見ることを指す。 元々は家族療法の用語。

 

リフレーミングの詳しい説明は今の私にはできないのだが、それでも一度この本を聞いて閃いた。

 

リフレーミングによって、娘の暴力に対する捉え方を変えてみたらどうだろう。

 

これまでは娘の攻撃のそのすべてを、私への拒絶だと捉えてきた。すべてが私の行為や、存在までも否定する行為だと無意識に考えていた。

 

その考え方を、根本から変えるのだ。例えば拒絶じゃなくて、娘の「心の叫び」が暴力になっていると考えたらどうだろうか?

 

言葉で説明したいけど、すぐに言葉は出てこない。やりたくないのに何かをさせられる!!いやだいやだいやだうわあああああああ!!!!

 

そんな思いが攻撃性として現れていると捉えれば、娘の暴力に対して感じることも大きく違ってくる。

 

今日は調子も悪くて絶対にカバンを持ちたくない!!嫌で嫌で仕方ない!もういやだ!!!!

  

イライラしてお皿をスプーンで叩いて大きな音を立てて自分を落ち着かせているのに、無理やり止められた!!!うわああああ!!!

 

とか。娘の攻撃は、我慢の限界に達した心の叫びだと解釈を変えてみると、怒りどころか悲しい気持ちになる。かわいそうになってくる。

 

嫌で嫌で仕方がないことを上手くアピールもできず、嫌だと態度で示しても聞いてくれない。言葉も上手く出てこないから、手が出てしまう。

 

とても当たり前のことなのかもしれないが、自分が拒絶されたということに頭がいっぱいで、娘に対する共感が足りなかったのかもしれない。

怒りが落ち着き始めた

急に人が変わることはないのかもしれないが、ここ数日は娘の攻撃に対して特に怒りを感じない。穏やかに、むしろ同情しながら対応できている。

 

そりゃ、嫌だ嫌だといえばすべてやらなくていいわけじゃないんだよ。脳に後遺症が残る可能性がある以上、てんかんの薬は我慢してでも飲んだ方がいいと判断する。

 

それに親が死んでも生きていけるように、今から少しずつでも自立に繋がる習慣を教えていかねばなるまい。

 

それでも、娘が快く、気持ちよく成長・行動できるように工夫することはできるはずだ。

 

カバンが重たくて嫌なら、例えば二つのカバンにわけて一つは私が持ってみるとか。ドライヤーの時間が長すぎて嫌なら、休憩を挟みながらドライヤーをやってみるとか。お皿を叩いて心を落ち着けているのなら、叩いても壊れない別の物を用意するとか。

 

この暴力が娘の心の叫びだと捉えれば、拒絶と捉えていた時には思い浮かばなかったアイディアがどんどん湧いてくる。

 

今回気づいたこの再解釈は素晴らしい。娘と私の関係を大きく変える一歩になるだろう。

 

問題は、今後も継続できるかということ。リフレーミングってマインドセットによく似ている。きっと、意識しなければすぐに元に戻ってしまう類のものだろう。

 

おそらく、最初に娘と出会った頃の私も「工夫してなんとかしてあげたい」と思っていたはずなのだ。娘に共感して、もっと快適に、笑顔で過ごせる環境を整えてあげたいと思っていたはずなのだ。

 

結局、毎日続く攻撃に心が耐えられなかったんだよ。無理だったんだよ。テーブルに手をおいただけでグーで殴られ、引っ掻かれ、頭に椅子投げられて、顔に絵本やペンやスマホ投げられて。

 

厳しい現実を受け入れた上で、この解釈を維持できる戦略をたてる必要がある。これは拒絶ではないのだと、頭に心に刻み込み続ける必要がある。

 

実際に子供達に拒絶された時に心が崩壊しそうなのは大きな問題だが、とりあえず今は一歩進んだと言うことでよしとしよう。

 

何をやっても、死ぬまで暴力がなくならないかもしれない。だからといって虐待していいということにはならんからな。元気でやってほしいもんだ。

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