息子と向き合うとんぼである、ごきげんよう。
おかげさまで息子の本音を知ることが増えてきた。
私だけじゃなく妻の対応も良くなっているのもあり、色々話してみてもいいと考えだしたのかもしれない。感情を言語化する能力が成長したのもあるか。
その中のひとつで、過去の嫌な思い出があるとのこと。私の毒親失敗談である。
今回はこの件を紐解いてみたい。
幼稚園の持久走大会
今から4年近く前、息子の幼稚園時代に持久走大会があってミニ運動会的な感覚で参加。
なんと息子は3位に入り銅メダルを貰って嬉しそう。その後もずっとメダルを大事にしてる。
そんな輝かしい記憶のはずが、昨晩の息子が妻に言っていたそうな。
「持久走大会で三位でメダルもらった時、パパだけが喜んでくれなかった。あの時のことは一生忘れないかもしれない」
……おいおい、我ながら毒親感すごいな。知らぬ間にトラウマを植え付けてしまってたってか?
うーん。なんでだろう。最低限の声かけはしたと思うが、確かに喜ばなかった記憶がある。
当時ブログはすでにあったので確認してみるも、息子の持久走大会のことは書いていない。書こうかなと思いつつも結局書かなかった。
実際のところ、本当に嬉しくなかったんだね。
フォローが必要な案件っぽいのだが……
今考えても別に3位が嬉しいとは感じないのが問題だ。本当は嬉しかったんだよとウソはつけない。だってどう考えてもウソじゃん。
当時明らかに喜んでなかったくせにどの口が言ってんのって話。
今さら嬉しかったよなんて子供騙しみたいなこと言えないよ。
とりあえず近々フォローはする予定ではあるものの、何でこんなことになったのかを検討する必要がある。
①元気がなかった
まず塩対応となった原因の一つに、当時のメンタルのやばさが挙げられる。
息子が幼稚園の頃といったら結婚2~3年目で一番追い詰められていた時期だろう。うつ病のピーク。
朝は体が動かない、目は開かないし手には力が入らない。普通の生活を維持するのに必死。
送迎があるから絶対に起きなければならないと、寝室から這って出てきてた時期と重なる。動けず、娘を休ませて寝てたこともチラホラあった。
いやほんと、体が動かないんだよ。
あの時の私が笑顔で対応できるとは思えないな。私には私の事情があることはとりあえず伝えた方が良さそうだ。
②今より未熟だった
子育てを何も知らない私の教育指針は『嫌われる勇気』だったもんで、何があっても褒めないことを超重要視してたのも塩対応になった原因だろう。
三位になったね!すごいね!!はやいね!!
なんて死んでも言わん。今でも言わんけど。
でももし今同じことがあれば、3位になったことではなくて過程を認めるような声かけをするかなぁ。
暑い中頑張って走っていたねお疲れ様、いつも遊びながら運動してる効果があったね。
とか。当時の私は微笑で「おめでとう」くらいしか言わないかも。
③完璧主義がすごかった
完璧主義が今より強かったのも大きく影響してそうだ。
客観的な事実として、当時の息子は毎日幼稚園で遊んでるだけ、休日も暇だ暇だと言って遊んでいるだけ。毎日遊んでいたのが息子である。
ただ外で遊ぶ時間が長かっただけの息子がたまたま周りより体力があっただけで、三位という数字に特別な感情を抱くことはなかった。
すごいなんて思わんし、ましてや褒めたいとは微塵も思わなかった。
むしろこんなんで「オレはすごい」と調子に乗られても困る。努力をせずに手に入れた結果にあぐらをかかれてもイライラする。
……というわけで、リアルに
三位だったとしてだからなんだ。
って思ってたんだろう。
身長がたまたま3番目に大きかった、程度の印象だ。
完璧主義凄かったからなぁ。息子が毎日30分以上走り込んでないと喜んでないと思われる。遊び以外で。
朝4時に起きて勉強しない自分を責めていたレベルの完璧主義の権化だから。心身が壊れるレベルの努力を自他に求めていたから。
難しいね。
普通にコミュニケーションに失敗してる
三位だった結果を、「すごいねー!!」と諸手を上げて褒めないのはある種のエビデンスに基づいている。
人は結果を褒められると、褒められた自分を守るために現実逃避するという。
三位の自分がすごいなら、三位じゃない自分はすごくないことになる。
もし次の大会も練習せずに参加しても三位は取れないだろう。しかし自主的に練習するような努力はしたくない。結果、入賞できなかったとする。
その時に、過去にすごいと誉められた息子はどう思うだろうか。おそらく、すごい自分を守るために言い訳をすることになる。
「この日は調子が悪かった」
「本気出したら勝ててた」
「練習してれば俺はもっとはやい」
「あいつら部活やってるから」
「俺も部活やってればあれくらいできる」
とかね、いくつか実際に聞いたことがあるセリフ。
自分はすごいままでいたい、でも努力はしたくない。だから色々と言い訳並べて自分を守っている。現実を直視できない空威張り。
……という結果になるもんだと思って、すごいね、はやいね、天才だね……といったレッテルを貼ることは一切していない。
逆に過程を褒めると人は頑張れるんだと。三位という結果でなく、三位という結果を得るための努力を誉めるのだ。
過程を認めてくれるなら、結果がどうであっても自分の価値は変わらない。三位だろうがビリだろうが、頑張ったことに価値がある。
そんな考え方が根底にあって……三位をとった息子にすごいとも言いたくないし、過程を頑張ってるとも思えないから、アホらしいなと思ってたんだろうなぁ。
今は過程もぐだぐだで結果が全然ダメでも、その人の人生だからそれでいいと受け入れようとしてる。今はね。
結局、頭でっかちなだけで普通に失敗してるな。認められていないって強く記憶に刻まれてしまって、まさにトラウマじゃないか。
まいったね。
子育ての失敗は
あぁ……子育て失敗しちゃった……と一瞬とても強い自己嫌悪に襲われたが、子育ての失敗ってなんだろうね。
めっちゃグレて家中壊し回る子がいたとして、子育て失敗なのかな?
10年後のその子は医者になってるかもしれないのに。
じゃあ医者になってたら子育て成功なのかな?
10年後には自殺してるかもしれないのに。
思うに、子育てに成功や失敗といったものはない。いや、子供が死ぬまでわからないんじゃないか。
生まれてきてよかったなぁと感じながら逝ってくれたら子育て成功では??と考えているものの、おそらく親は先に死ぬから確認することもできない。
だから親は死ぬまで子育てできる。
いつでも、今からでも取り返せると考えたら自己嫌悪してる場合じゃない。
……らしからぬまとめで本日は終わりにする。今日は授業参観に面談にモニタリングと詰まっているぞ。
では最後。
認知行動療法16日目
筆記開示 +20分(累計310分)
7つのコラム +(累計16)
今筆記開示をしてみたら、そもそも息子を認めていないというより、認める気がなさそうな感じだった。
もう少し認知行動療法すすめてから、持久走大会の話をしたほうがよさそうだな。
ではまたね。
ここまで読んでいただき感謝。
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