疲労の限界を超えたとんぼである、ごきげんよう。
娘が夜中に何度も起きるため死にかけている。
でも今日は元気だった。何でだろう。
赤ちゃんに助けられている
昨晩の娘、深夜1時から一体何度起きたかわからない。記憶もないくらいに起きて、その度になだめて。
もはや体も心もボロボロだ。娘の不安は強くなるばかり。どうしようもない。寝てくれない。娘も寝てないが私も寝てない。つらい。
そんな心身が死にかけた状態ではまともな思考はできず、息子のちょっとした行動にピリピリしてしまう。思考がまとまらずに心に嵐が吹き荒れる。
きっつい。しんどい。この生活はこれ以上は続けられない。
そんな中、本日は朝から赤ちゃんと二人きりだった。
6時まで娘と寝て、それから家族を見送ったあとは赤ちゃんと二人で8時ごろまで寝て……赤ちゃんに起こされた。
二日ぶりに顔を合わせる赤ちゃんは、私の顔を見てニパーっと笑った。
か、かわいい。
笑い合って、でもまだ眠いから目を瞑って、またしばらくして目を開けると赤ちゃんが目の前にいて……目があうとまた微笑んでくれる。
無垢の笑顔というのか、屈託のない笑顔というのか。赤ちゃんにしかできないんじゃないかこの笑顔は。
荒んだ心がみるみると息を吹き返していく。物凄いパワーがある。
眠すぎるんだけど赤ちゃんも起きたし、と頑張って起きた。体はだるい。何もする気はしない。
赤ちゃんが抱っこを求めてきた。二日ぶりだったからだろう。抱っこをしないとくっついてくるし、少し抱っこして床に置こうとすると泣く。
そうか、私に抱っこされたいのか。
重たいな。しんどいなと思いながらも抱っこして、胸にしがみつく赤ちゃんを見て苦笑する。
高い高いしてみたり、インターホンを使って遊んでみたり、その度に赤ちゃんは笑顔を見せる。ケラケラ笑ってくれる。
するとどうだ。目は冴え力がみなぎる。死んでたはずの心は完全に回復し、じゃあ頑張って公園にでも行ってみようかなと思えた。
そんでくっそ寒い中、実際に公園に行ってきた。赤ちゃんも数日ぶりの外出で笑っていた。よかった。最高の朝であった。
はて、赤ちゃんは親の抱っこが必要だと言う。愛着を形成するためには親との触れ合う時間がどうしてもなければならないと。
だから赤ちゃんのために抱っこする。
しかしどうだ、赤ちゃんの抱っこが必要だったのは明らかに私の方ではないか。赤ちゃんを抱っこすることで、愛されている実感を得て癒やされていたのである。
寂しいだ孤独だと喚いている私に満面の笑みを向けてくれて、全力でしがみついてくる。私が必要だと言ってくれている。
与えてるつもりが、与えられていた。
多分、与えられている方が多いんだろうね。産まれてきてくれて本当によかったよ。おかげでまだまだ戦えそうだ。
依存を抜けよう
と綺麗に終われたらいいのだが、赤ちゃんに依存しているというのが正直なところだ。
赤ちゃんが笑ってくれるから、遊んでくれるから、必要としてくれるから。こんなんいつまで続くのかわからない。
そもそも4月には保育園に入る可能性も(多分)高い。赤ちゃんと過ごす時間が減ったら終わりじゃないか。
娘が異常に荒れて、息子も赤ちゃんも成長していって、今後も心が死にかける予定なのに今後は誰が癒してくれるというのか。
……それはきっと、自分しかいない。自分で自分を癒す、というより自己受容が必要だと最近強く感じている。
結局は自分を受け入れられてるかどうかが子育ての肝なのではないかな?
世の中に自己受容ができている親がどれだけいるのか知らないが、相当難しいよ。普通に生きてて身に付くものではない。特に愛着障害を持ってるなら難易度高すぎる。
赤ちゃんが保育園に入るまでに自己受容を身につけれなければ、寂しさと孤独の業火に包まれて死ぬと思う。
正直自分のストレスケアとか言ってられない生活を強いられている現状だが、やるしかない。
……何しようかな。自己受容に良さそうなのといえば、やっぱり瞑想かな?
孤独・愛着障害・親子の愛、といったテーマの本読むとほぼ必ず瞑想せえと言ってくるんだよ。面倒だが、きっと私にも必要なのでしょう。
◆生活改善記録
筆記開示209日目 +20分(累計2325)7つのコラム+ 4(累計209)
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