なんか重そうなタイトルをつけてしまったとんぼである、ごきげんよう。
しかし重い話を書くほどの時間はない。元気なのに咳がひどくて保育園に行けない次男坊(1歳)の相手を夕方までして、その後はすぐに娘の対応だ。
今も隣に娘がいる。てんかん発作も多い。重い話を書いてる場合ではないのだが。
ただちょっと思ったことがあったので。どうしろっちゅーねんという疑問。
多様性と自主性と憲法
本日は長男坊(小5)の家庭訪問があった。コロナ禍を経て家庭訪問にも変化があり、家の中には入ってこない。
玄関先で簡単な連絡事項やら学校の様子を聞いたくらい。お子さんのことで気になることはないか?と聞かれたので、過去の人間関係のトラブルを軽く伝えておいた。
長男は支援学級の子がちゃんと授業を受けないのが絶対に許せないという考えを持っているので、この辺は伝えておいた方がいいと判断した。
まあそんな感じで終わったんだけど、気になったのは宿題と保護者の関わりの話。
4年生の3学期、学校側は宿題に関してある試みをしたそうな。
それまでは学校から宿題について指定があった(プリントやノート◯ページなど)のを、完全自由性に切り替えたと。
自分でやりたいようにやってきていい、自分ができる範囲で考えてやってきなさい、的な。
おそらくは自主性を高めたいと考えたのだろう。自分で考えて動く力は重要だし、自分で考えられる人になってほしいとかそんな感じだと思う。
しかし結果は芳しくなかったようだ。
宿題をやってくる子はやってくるが、やってこない子は全然やってこない。大きく差がついてしまったらしい。
うちの長男も言っていた。
「宿題はやらなくてもいいって先生が言ってたよ」
……
そうなんだよね。
今までも何度もあった。やってもいいしやらなくてもいいものはやらない。なぜなら「先生がやらなくてもいいと言っていた」という免罪符があるのだから。
そんな子が一定数いたのでしょう。学校側としては宿題の自由化は失敗したと判断したようで、5年生に上がってまた宿題を指定することになったと教えてくれた。
もう一つ気になるのが、3~4年生あたりから自分で学校の準備をチェックしろとの指導が過去にあったこと。
高学年なら親のチェックがなくても自分で準備できるようにしよう、的な。
それも完全に覆されていた。
保護者は子供が学校の準備をちゃんとできているかチェック、また宿題についてもできる限り家庭で確認するようにしてくださいって。
私の記憶違いかな。この1~2年はほぼ長男本人に任せてきたのだが、またチェックすることになるのか。
実際、ぐだぐだで公文も全然持ってこないから悪いこっちゃないが。
まあ……自主的にできるだろうという学校側の見通しが普通に甘かったということだ。それに思考停止で従った我々も悪いか。
どこまでが教育なのか
現代は多様性が叫ばれている。多様性って突き詰めれば何でもありってことだ。違法なことはダメだけど、基本はすべてが多様性として許容される。
学校の宿題をやらないのだって多様性の一つだし、宿題をやる余裕はあるけどゲームを優先するのだって多様性の一つと言える。
整理整頓が苦手で忘れ物が多いのも本人が困っていないなら多様性として済まされる。
でまぁ多様性を認めていこうとした結果、宿題をやらない奴が多数出てきて学校が焦ってるという感じかな。中途半端だなとは思う。
少し脱線するが以前から思ってるのは、現代はいつ誰が依存症になってもおかしくない世界だということ。
人生楽しいのは悪いこっちゃないが、楽で楽しいことが簡単に手に入りすぎる。
寝っ転がって指をポチポチ動かしてれば世界中の動画が見られて、ギャンブル並に脳汁を溢れ出させることも容易である。思考停止でショート動画見続けるとか。
そんなんあったら、やらなくてもいい宿題なんてやるわけがない。体も動かさない。座って画面見てるだけで延々と幸福感を演出できるんだから。
現代の娯楽と比べたら、これまでの人類が営んできたほぼ全ての活動のコスパが悪い。タイパも悪い。
よほど明確な目標があるなら別だけど、面倒臭くて強制力がない学習を将来のためにやるか?楽で楽しくて脳汁溢れ出す娯楽が目の前にあるのに?
自主性を育てようと言うのは簡単だけど、現代の環境で自主的に自立するのは不可能に近いのではないか?放っておいたら廃人しか製造されないのでは?
でも廃人になるのも多様性の一つなのかな?廃人が一般化したらそれはもはやスタンダードと言えるのかな?
どうだろうね。節度を保って娯楽と付き合えるならいいが、自主的に節度を保って現代の娯楽を楽しめる子供が一体どれほどいるのか。大人ですら難しいのに。
短期間なら問題なくても、長期間にわたって安易な快楽に溺れ続けると脳が変化する。中毒者の脳と健常者の脳は違うのだ。
ギャンブル依存症に一度なったら2度と元には戻らないという説もある。
スマホを見てるから、ゲームしてるから、動画見てるから、宿題をやらない。
どうなんだろう。これって本当に受け入れていいことなんだろうか。
でも小学生からスマホ持ってるのが当たり前になってきてるというから、止められない波なのは間違い無いんだろうね。
100年後の世界では、現代の娯楽がアヘンと同じように扱われている可能性もあると思うのだが。
憲法では
でまぁ多様性を認める社会になりつつあるが、憲法では教育を受けさせるのは義務である。
教育というか義務教育のことだから、学校で教えることを守れるように指導することは親の務めの一つと考えられる。
……じゃあ宿題をやってるかチェックし、一緒に見ていくのも親の義務か?
でも多様性も大事だから。宿題をやりたくない子に無理に宿題をさせるのは教育虐待と言えなくもない。やりたくないならやらなくてもいい、それも間違っちゃいない。
ただ本人が嫌なことは多様性として受け入れて、楽な方に逃げても受け入れ続けたとして。
大人になったらどんな人間が出来上がるんだろう。大人になったらその人自身の責任だから、親が責任をとることはないから逃げ切りかな?
子供の頃からギャンブル依存症と同じような脳みそになっていても、それは親の責任ではないのかな?
まあ親も依存症になってるのが現代か。私もそうだし、日本国民のほぼ全員が依存症と言ってもいい。誰もが依存症なら右に倣えの方が楽か。
教育って難しい
そういえば、多様性と自由を叫び続けたアメリカは悲惨なことになってるという話をよく耳にする。
何をしてもすぐに訴えられる自由な国家。薬物もはびこっているというし、銃を手に入れるのもそんなに難しくないと。
子供を一人で学校に行かせるなんて論外で、子供を一人で公園に遊びに行かせたら親が逮捕される。子供の誘拐もとんでもなく多いとか。
ソースがないのでどこまで本当かはわからんが、それと比べて日本が悪い国とはとても思えない。他国の猿真似をしてグローバルに合わせる意味なんてあるのかな?
もちろん日本にも悪いところは多くあれど、治安がいいのは何事にも変えられない素晴らしい要素だ。
とか。何の結論もないただの落書きみたいなこと書いてしまったが。
とりあえず暫定的な結論として、現代の子育ては何も考えずに周りに合わせてたらダメだなと思う。
自主性を育てるのは今後の人生で重要だろうし、かと言って多様性を認めるのだって重要だし、依存性がある新しい技術に触れるのも重要だし、嫌なことに立ち向かう力も重要で。
スマホが普及して10年ちょっと。誰もが永遠に楽しめる娯楽を手に入れた。嫌なことから逃げ続けて娯楽漬けの人生も多分普通に選択肢としてある。
何もかも正解になりうる世界で、周りに合わせてたらロクなことにならない気がする。
まあ数十年後にどうなるか答えが出るはずだが、何が正解かわからない世界になってるから。きっと、各々が答えを出すのかもしれん。
宿題についても、やっぱりそれぞれに適した答えがあるんだと思う。
子供に干渉しすぎとか、放置しすぎとか、これはもっとこうすべき!みたいな、子育てで画一的な答えに飛びつくのはやめた方がよさそう。
自分の子供を見て何が必要で何が不要なのか、親がしっかり考えた方がいい。その人にあった道を模索するのが新時代の教育かもしれない。
宿題やらない方がいい子もいるし、ちょっとがんばって宿題やった方がいい子もいるし、自主的に宿題をこなせる子もいれば、宿題以上の学習を苦もなくやってる子もいる。
ゲームや動画を自主的に律することができる子もいれば、できない子もいるし、あっという間に依存症になる子もいる。
誰でも当てはまる唯一の答えなんて存在しない。それこそが多様性であって、何でもかんでも認めるのが多様性ではない、ということなのかも。
でも何でもかんでも認められる多様性こそが新しい世代であって、古い世代の私には到底理解できないものなのかなと思わんこともないが。
結局、重たくてまとまらないようわからんの書いて、家族は皆寝てしまった。まあいいや。この辺で終わりにしよう。
ただ学校側が保護者に宿題のチェックをお願いしてきたのを見て、自主性を育てるのは簡単じゃないんだなと思っただけです。おしまい。
ここまで読んでいただき感謝。
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