ふがふがとんぼである、ごきげんよう。
3時間しか寝られなかったのは、興奮冷めやらぬ時間を過ごしたためか。いや、隣に寝てた母親が、深夜2時から演歌歌手についてのマシンガントークをしてきたせいかもしれない。
実家に泊まらなければよかったと後悔しつつ、友人宅に遊びにいった話。自宅に帰る前に書いておこう。
友人宅の時間
いつも連絡を取り合っている友人より、しばらく連絡をとっていない友人と接した方が新規性の高いアイディアが出やすいという話がある。
会わない間に知識と経験が蓄積されているからで、これがいい刺激になるそうな。
これはアメリカのラトガース大学の研究で……(笑
研究通り、1年半ぶりに友人家にお邪魔したら様々な発見があった。
夕方から7時間ぐらい喋り続けたのか。得るものもあり、思うところもあり。忘備録として、一方通行のお手紙としてブログに書く。
仕事の話
今の友人夫妻の仕事の詳細は聞けなかったが、すっごい波に乗っている時もあれば悩める時もあるのでしょう。
私は"今”遊びに行くと決めた側だから絶好調なわけだが、迎える側としてはタイミングも何もあったもんじゃない。
それでもある程度の高みに登ったからこその悩みを持っている感じ。進めど進めど課題が尽きないのは仕事も人生も同じですね。
ちなみに、今私が考えている金策にもアドバイスをいただいた。何の形にもなってないからしょーもないんだけども、まぁまぁ、これから。
私の家族からは絶対に出ないであろう情報が色々聞けて、なんとなく光が見えたりして。
でもターゲット悩む。書き方も悩む。微妙なところだ。
怒ることが愛情を感じさせる話
一つ引っかかってるのが、子供を怒ることで愛情を示せるという話。怒るというより、叱るの方がニュアンスが近いかも。
私が子供たちを怒ることを是としていないと話すと、それは違うのではないかと諭された。
友人は、父に叱られた時に初めて「私は父に愛されてるんだ」と感じたという。
Mr.マリック親子を彷彿とさせる。確かあの親子も同じ、親に叱られて初めて愛情に気づいたと話してた。
それでも私は引っかかる。何がこんなに引っかかるのか、友人宅では説得力のある答えを導き出すことができなかったが……
今冷静になった頭で考えると、多分こうだ。
私は普段の、普通の、日常的なコミュニケーションで愛情を示していくべきだと思っているのだ。
別に怒らなくとも、叱らなくとも、子供に共感し尊敬を示していけば愛情を示せるのではないか。それも、子供と真剣に向き合っているのと同じことではないか。
叱られたことで愛情に"気づいた"のは、それまでの普段のコミュニケーションが「父は私のことが好きじゃないor興味がない」と感じさせていたからではないのか。
普段の父親との関係性がどうだったのか聞けばよかった。Mr.マリックは仕事人間で家族とほとんど話はしなかったというからあれだが……
結局の問題は、じゃあ私が普段から愛情を示せているのか?ってことかなぁと。
今の私は未熟者なので、日々怒りのラインがぶれてしまう。昨日は怒らなかったことで、今日は怒る。
明確な線引きを私自身ができていないし、怒ったら愛情を示すどころじゃない。それに何がきっかけで怒るかわからない家族とは、安心して過ごせない。
これじゃダメだから、ここは怒りを示す場面じゃないと理性が伝えてるから、怒りを押し殺してるところも大きい……と言えたらよかったね。
それでも高い高い理想に向かって邁進するのが私の子育てであり、我が人生なのです。
ゆるしの話
色々あった上でびびっときたのは、ゆるしの話。おそらくは、許しではなく赦しの話。
ただただ相手を赦す。それで自分が楽になる、というそんな話。キリスト教経由の話なのかもしれない。
私は過去の黒歴史がたびたびフラッシュバックし、その度に「自分なんか死ねばいいのに」と考える。周りに誰もいなければ普通に口に出す。
他者への怒りも環境への怒りも何もない。ただただ自分が許せない。許されない。許してはいけない。
そんな意識がある。
過去の自分も今の自分もダメな自分も受け入れようと頑張ってはいるが……なんとなく、受け入れるより赦すの方がしっくりくるよなぁと思って。
だって私は私に怒ってるんだから。
確かにクソだった。あの対応もクソだった。あれもクソ、あれもゴミ。まじで恥を晒してる。いいことない。終わってる。死んだ方がいい。
まーでも、そんな自分も赦してみようかしら。
その準備はできてる気がする。
「ゆるす」という言葉にどこか上から目線の響きを感じてしまうので、あまり好んで使う言葉ではないが……
許すは相手に許可を与えるニュアンスで、赦すは自分の中で完結する感じ?
それなら、子供たちも赦す方がいいのかもしれない。いや、子供たちを許せない自分を赦すってことか。
この言葉は時間をかけて考えてみたい。
結論:家族以外とも話した方がいい
というわけで、がっつり話してきた。
抽象的な話も意味不明な理想論も普通に話せて、それがすーっと理解される感じがとても懐かしい感覚だった。
いやむしろ、友人の方が意味不明な話をしてたと言ってもいい。
「石ころは悟っている」
仏教派の言うことは意味不明やなぁと思いきや、アドラー心理学でも石ころは共同体の一部なんだよ。いやぁ、いろんな発見があるよねぇ。
以上、私が有益なものを提供できたかは微妙なところではあるが、また時間をあけて知識と経験を蓄積できたら会いに行こう。
妻や子供たちと話すのとはまた別のベクトルで楽しい時間だった。
……ところどころバチバチやりあった気がしなくもないけれど、それで壊れることのない関係性が友達ってやつだよね!絶対に譲れないことってあるよね!
おしまい!
ここまで読んでいただき感謝。
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