本を読みたいとんぼである、ごきげんよう。
先日おすすめされた本を無事に読破した。今回はその読書感想文である。
どうしても頑張れない人たち
先日、頑張らない人を差別している無意識の話を書いたところ、面白そうな本を紹介された。
『どうしても頑張れない人たち』
差別主義者の私にはぴったりな本だと購入。ちょうど前作の『ケーキの切れない非行少年たち』もあって、これはこれで興味を惹かれて購入。
読んでみると、色々とまあ頭がごちゃごちゃしてるので、書きながら整理したい。
みんな本当は頑張りたい?
先日のブログで、世の中には遺伝子的に頑張れない人もいるとの話を書いた。
そういう人もいるんだろうな、むしろそれくらいの方が受け入れやすいなと思っていたが、この本ではちょっと見解が違ってた。
この著者の頑張りの定義では、本当はだれもが少なからず頑張っていると言うのだ。日常的にめんどくさいこと、嫌なこともあるが、それでもやっている。
それに今頑張れない人も、実は頑張りたいと思っているのではないか。勉強ができない子供たちも、本当は自分もみんなと同じでありたいと感じているのではないか。
だから、頑張らなくていいんだよとか、別に勉強しなくてもいいんだよ的な、一見優しさに見える声かけはむしろ相手の可能性をつぶしているのではないか。
幸せになるためには少なからず頑張ることが必要なのだから……といったところか。
いいんだよいいんだよ、何も頑張らなくていいんだよ、無理しなくていいんだよ。そう言われて、本当は頑張りたかった心はどこに向かうんだろうか。
良さそうな言葉なのに、とても危うい。
本人は実際のところどう思っているのか。日々のコミュニケーションでしっかり確認しておく必要があるな。
もちろん、自分もそうだ。何度も失敗したことは、別にやらなくていいんだよ、そのままでもいいんだよと受け入れる姿勢も重要だが……
でも本当はどう思っているんだろうか。本当はどうしたいんだろうか。これをはっきりと認識しておかないと、後に後悔しそう。
支援をしたくない人ほど
支援をしたくない相手だからこそ支援しなければならない。
印象深いフレーズである。
頑張る気がない。何もやる気がない。暴言を吐いてくる。さぼる。まったく成長が見られない。裏切られる……etc
このように、こいつはもう支援したくない、もういいわって思いたくなる人ほど、支援が必要だと著者は力説してる。
何があってもこの人は裏切らない、安心できる存在だと感じてくれるように、相手がどういう行動を取ろうとも支援し続ける姿勢が必要だと。
わかるけど恐ろしい話である。支援をするかどうかは支援者の自由。それに対してどう応えるかは相手の自由。
課題の分離ですね。ふふふ、わかるよわかる。
例えば私なんかでも、娘に叩かれてご飯を投げられても、それで見限っちゃダメなわけだ。
うちの母親も、20年以上ひきこもっている長男については苦しんでいるはずだ。働かない。ほとんど話もしない。食事を取りに来るだけ。ずっと変わらない生活をしてる。
そんな諦めたくなる人だからこそ、見限ることなく、ずっと支援をしていかなければならない。
ただ衣食住を提供し続けるだけが支援とは思わないが、支援者には強い意志と鋼のメンタルが求められるな。
その他の周りを見ても、支援者にも支援が必要なのがよくわかる。
ひきこもりの長男を支援する母にも、シングルマザーで娘を育てている長女にも、うつ病になった旦那を支える次女にも、
「なんでもっと頑張らないの?」
これは絶対言っちゃいけない言葉だと心で理解しました。ちなみに、私にも言わないでほしいぞ。
マズローの欲求5段階説欲求
書籍で紹介されているマズローの欲求5段階説というものがある。
人間には欲求がいくつかの段階にわかれている説で、簡単に紹介すると……
食事や睡眠など生きていく上で最低限のものを確保するのが最優先。それができたら安心できる存在を欲し、次に自分が存在できる場所を欲し、それから周りから承認されることを欲する。
で、これらがすべて満たされて初めて、自分のやりたいことを頑張りたい欲求が出てくると。
お腹がすいて明日食べるものがないなら勉強どころじゃない。同じように誰からも愛されない、居場所もない、誰からも認めてもらえないなら何のやる気が出るわけない。
これが事実だとすれば、支援者にできることなんて、その人の生活基盤を安定させて、愛情を示し、その人の存在を無条件に認める安心できる存在であることくらい?
くらいというか、むしろ超難しくて超重要なことだ。
そこが安定して初めてやる気が出てくる。それは勉強かもしれないし、そうではないかもしれない。理解できない何かに意義を見出すかもしれない。
支援者(親)が何に向けて頑張るかってところまで首を突っ込んじゃうから、おかしなことになんのかね。
あーだこーだ言うな
やる気の話で、見守る姿勢が重要だとの話にちょっと抵抗ありつつも納得した。
宿題やろうとしてたのに、宿題やったの?と聞かれたらやる気をなくすとか、あれしろこれしろ言われると逆効果だとか。
せっかく心を開いて子供が話をしてくれたのに、「‥‥でもな、私はこう思うぞ」的な話をすると心を閉ざしてしまうとか。
とにかく何も言わずに話を聞いたり、見守った方がいい場面も多いんだって。妻に聞かせてあげたい。
私もだけどな。今朝の息子に見通しの悪い道を走るなと注意したら「わかってるわ!」と反発されたわ。むかつく。
頑張れない人に思うこと
頭が回らないので長々と書いたけども、私の出した結論を書いて終わりにしよう。
頑張れない人、頑張らない人にも、きっと何か頑張りたいことがある。それは私には理解できないものかもしれないし、一般的には馬鹿にされることかもしれない。
娯楽でもゲームでも、億万長者でも、異性にモテたいでも何でもいい。
その頑張りたいことが、その人にとっては幸せを感じることなのだ。
何かを頑張れと強要するのもおかしいし、勝手にあれは頑張らなくてもいいと決めるのもおかしい。
ただ相手が幸せに向けて頑張ってみようと思えるように、見捨てることなく支援していく。
安心できる衣食住を提供し、決して見捨てることのない存在として愛情を示し、存在を認め、見返りを求めず、条件をつけずに支援していく。
そうすれば、いつか自発的に何かを頑張ろうって思える日がくるかもしれない。
……頑張ろうって日は生涯こないかもしれないが、そこはまぁ課題の分離だ。私はただひたすらにあなたを支え続けるから、あとのことはあなたに任せるよ。
アドラー心理学の勇気づけってのも多分、そう言うことなんだろう。
頑張れない人、頑張る気がない人を見限るのは楽な道である。
支援は修羅の道だから諦める人を否定はしないが、せめて家族くらいは見捨てずに支援し続けたいところだ。
後日もう一回読みたい本であった。紹介してくれて感謝です。
ここまで読んでいただき感謝。
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