立て続けに人と話す機会があったとんぼである、ごきげんよう。
人付き合いはパワーを使うのであまり高頻度で誰かと話そうとは思わないのだが、やっぱり人の話を聞くのは面白い。
私の中にない思考がまた面白い。特に優劣はないし、正解はその人だけのものだと前置きしておく。
人と話して思うこと
余暇が大事な義理の弟
ちょうど妻の弟が帰省していて、少しだけ話す機会があった。
私の7個下で未婚。今まで3~4回くらいしか会ってないくせに、顔を合わせるたびに悪い癖が出てうざがらみしてしまう。
「夢はあるんですか?」
「人生でもっとも大事なことってなんですか?」
「今の彼女との結婚は考えていないってことですか?」
「○○の国家資格を持ってるのにその職につかない理由はなんですか?」
書いててやばいな。この義兄、嫌われてそう。
妻の弟君が実家に帰ってくるたびにこんな感じになる。うざがらみしないように我慢して我慢して、少し軽い話をしてたら、結局深い突っ込んだ質問をしてしまう。
もはや病気である。
そんで昨日はある資格の勉強をしてると言うから、それについて聞いてたらスイッチが入ってしまって、天職は何かという話になってしまった。
義弟の言うことを端的にまとめると、人生の目標とかやりたい仕事とかそういうのはなくて、余暇が楽しけりゃそれでいいとのこと。
以前の私ならねぇ、いやいや、一度の人生なんだから壮大な夢を追ってなんぼでしょ!と突っ込んでたはず。
もっと面白い生き方があるだろと、余暇を楽しんでその人生なんなん?楽しいの??と。
でも何が大切かは人それぞれなんだよね。余暇を楽しんで死ぬ時に満足できるなら、それがその人にとっての幸せなのだ。私とは物差しが違うのである。
ただ義弟くんは別に仕事自体に何の意義も見出していないことはなく、単純に熱意を持ってやりたいと思える仕事が見つからないという感じ。
これはこれで面白い話。得意なこととか好きなこと、価値観とか質問して根掘り葉掘り分析してた。
あともう少しで面白そうな答えが出るぞ!ってところで娘がめちゃくちゃ暴れて強制終了。
さすがに暴れる娘を無視してまで話を続けるほど無神経ではない。中途半端に終わってしまって次ははいつ会えるやら。
思うに、理想の仕事なんてわかりやすいゴールはそもそも存在しないのではないか。
資格を取れば終わり、特定の職につけばめでたしめでたしとはならんのが現実。その職について何をしたいのか、どうありたいかも大事。
家庭環境が変われば理想の仕事も変わる。時を経て変化するのが人間だ。決定的な一つの答えがあるとは思わない方がいいかもしれない。
うーむ、少しは年上らしい話をできたらよかったのだが……
でも真剣に私の話に付き合ってくれるからありがたいぞ、義理の弟よ。
自分が一番大事という友人
また本日は、10年来の友人と夫婦で食事に行ってきた。
話した中でびびっときた中の一つ、一番大切なものは何か??との問いにはっきりと
「私」
と友人が答えたこと。家族よりも友人よりも、何よりも自分を大切にしたいとのこと。
こう字面で見るとあまりいい印象をもたないかもしれないが、まぁでもよく考えてみれば誰しも自分が一番大事じゃないか。
家族が大事とのたまう私だって、家族が幸せであることが私にとっての幸せだから。つまり家族を大切にするのは自分のため。利他的と思いきや利己的である。
誰かのためにやっていることは、回り回って自分のためになる。相手を大事にする行動も、相手に嫌われないために嫌々やる行動も、得するのは自分と考えることもできる。
おそらく友人はそう意味ではなく、単純に他の誰かのために自分を犠牲にする気がないという意味で言ったと思われる。
これはこれで非常に興味深い。自分が一番大切というのが言葉通りなら、どういう感覚なんだろう。味わってみたい。
んでね、自分を出さないのが難しいと言う私に、友人は「自分は出した方がいいよ」と軽く言ってくれた。
自分の感情は表現した方がいい、素直に生きた方がいいとの解釈をしたが……ただ私の言う"自分”とは、くだらない承認欲求のことである。
話してるとたまに自分を出したくて堪らなくなる。認めてほしくてたまらないのだ。
でも誰かに認められたところで一時的に満たされるだけで、すぐに乾いてしまう。
空っぽのコップは自分で満たすのだ。自分のコップすら満たせない奴が、家族のコップを満たせるわけがない。
……とかね。
私が一番大事という話を突き詰めてなんとなく思うのは、"私"の幸せを願ってくれる人がこの世界には存在するということ。
それは家族かもしれないし、仲間達かもしれない、ネットの向こうの誰かかもしれないし、どこかの国の聖職者かもしれない。
私が幸せであればその人は喜び、私が不幸であればその人は悲しむ。
私が幸せであることはその人にとっての幸せでもあるし、その人の幸せを心から願うのならば私も幸せである必要がある。
利己的でもなく、利他的でもない。アドラーの言う"私たちの幸せ"とは、そういうものなのかもしれない。
誰をどこまでを自分の人生の主語にするのか、少し考えてみると面白そう。
私の「私たち」は、誰まで含むんだろう。
考える自分が好きよ
というわけで面白い話を聞けた二日間であった。興味深かった。
妻や友人からとんぼは成長したと最近よく言われる。私は特別何かが変わったとは思ってないし、10年前の私も今の私も基本的に同じである。
そんな中で一つだけ変わったと思えるのは、考えている自分が好きになってきたこと。
もちろん間違えていることがあるし、そもそも知識不足で考える土台にすら立てていないこともある。要は勉強不足さね。
まぁ少しずつ積み上げるしかないか。日々をがんばりましょう。
ではでは、明日は日曜日。気合いいれよう。おやすみなさい。
ここまで読んでいただき感謝。
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