風呂掃除したとんぼである、ごきげんよう。
久しぶりに風呂がピカピカになった。次男坊が保育園に行ってくれると掃除までできてしまう、気持ちいいったらない。どんどん綺麗にしていきたい。
さて、風呂場で何となく頭に沸いた疑問。
娘と一緒では
うちの娘は特別支援学校に通っている。重度の知的障害+発達障害を持ち合わせており、てんかんもあるために保護帽も被らねばならない。
帽子がなければ見た目ではそこまでわからないかもと以前は思っていたが、その辺を歩く同年代の女の子と比べて表情に豊かさがないので見ればすぐわかるだろう。
そんな娘と二人で出かけることは多い。
じゃあもし、娘を連れている時に昔の友人にあったどう対応するだろうか?
地元のスーパーとか実家に寄った時とか、偶然に会いそうなもんだ。
昔の友人からすれば、私にこんなでかい子供がいるのも驚かれるだろうし、それが障害児だったら相手も反応に困るだろう。私も何て言っていいかわからない。
自分の子供ではないことを言う?いや、言う必要はない。何をどこまで話せばいい?
あまりにも微妙だ。
正直言って、昔の友人に娘を見られたくないし、娘と一緒に地元を練り歩きたくない。
そんな結論になり、思う訳だよ。
あれ?もしかして私は、娘のことを恥ずかしいと思ってるのか?
どうでしょう。これはこれで面白い心の動きなのだが。
娘といると恥ずかしいのか
自分に、こういう教育上決して褒められないような思考があることを認めたくないじゃないか。娘のことを恥ずかしいと思ってるなんてあまりにかわいそうだし。
いや、でももしかしたら障害児を持つ親御さんの中では普通にあるものなのかもしれない。
言わないだけで、誰にも見られたくないという思いが少なからずあるのかも。
じゃあこの恥ずかしさをどう処理すれば対応できるようになるんだろう?と考えてみたんだけど……
なんかどうも違う。深く考えれば考えるほどに、娘のことを恥ずかしいとは微塵も思っていなさそうなのだ。
じゃあなぜ娘を連れて地元を歩きたくないんだろう。
そこである仮説を立ててみて、気づく。
娘がいようがいまいが、昔の友人には会いたくないのだ。
しかし保護帽被って奇妙な動きをする娘がいると目立つじゃないか。目立つ娘の隣にいる私も目立つじゃないか。つまり私という存在の発見率も上がる。
そうなると昔の友人やよく知らない親戚とかに見つかる可能性が高まる。
それは普通に嫌だな。めんどくさ。
しかも娘がいようがいまいが、昔の友人には何をどこまで話すべきか全然わからないし、相手にも何の興味もないし、仲良くしたいとも思っていない。
つまりただのコミュ障だった。悲しいね。
別に恥ずかしくなかった
改めて振り返ってみると、娘と出かける時に恥ずかしさを感じることはない。多分、まったく感じていないかもしれない。
結婚当初、一緒に住み始めてすぐに娘の朝の送迎を始めた。歩きで幼稚園まで二人で行くってやつ。その時既に何とも思ってなかった。
「障害児を連れて歩くことを恥ずかしいと感じる人間かもしれない」
と結婚前に危惧してたんだけど、実際は驚くほどに何も感じないのである。
娘が恥ずかしい云々より私にとって問題なのは目立つことなんだろう。娘が目立つのが嫌じゃなくて、私が目立つのが嫌だ。
基本的に人と関らず陰で生きていきたい派なので、娘がいるとこう表に引き摺り出される感じはあまり好きではない。
外で大声あげて奇声あげても駐車場で寝っ転がっても別に何とも思わない。ただその場のルールを大きく逸脱して周りに迷惑をかけるのは心苦しい。
プラネタリウムで大声あげるとかそういうやつは申し訳なさから逃げ出したくなる。
なんかそんな感じ。娘に対して恥ずかしいと言う感情は一ミリもなかった。これはこれはよかったのではないか。
ちなみに、自分自身のことは恥だと思ってる。だから目立ちたくないのもある。人間って面白いね。
ここまで読んでいただき感謝。
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